東京オリンピック・パラリンピックの大会運営ボランティアと、観光案内などを行う都市ボランティアの募集要項が3/28に発表された。これについて交通費や宿泊場所は自己負担・自己手配とされていること、1日あたり8時間の活動で10日間以上+研修が要求されることなどに注目し、又は活動内容に、それなりに専門的な技能が必要とされる役割も含まれていることなどから、「どこのブラック企業だ?」「やりがい搾取ではないのか」などの批判が、SNSなどネット上を中心に話題になっている。
個人的には、最初からボランティアとして募集しているので、騙そうとか、錯誤を誘発して参加させようということではないし、提示された条件で参加したい者が参加するだけだろうから、大きな問題はないと思う者の、批判する人達の感覚は問答無用でおかしいとまでは思えない。
例えば、被災地支援のボランティアなど、明らかに人道的な目的だったり、ビジネスとの距離がある程度あるような事案へのボランティアなら、交通費が自己負担だろうが、宿泊場所の確保が自己手配だろうが、医療など専門的技能が必要とされようが、拘束時間が長かろうが、「どこのブラック企業だ?」「やりがい搾取ではないのか」などの批判は出ないだろう。元来オリンピックも利益を追求するタイプのイベントではなかったし、オリンピック関連ボランティアも前述のようなケースと同じように認識され、少なくとも前回の東京オリンピックなどは、自分の生まれる前なので想像でしかないが、今回話題になっているような批判は無かったのだろう。
しかし、今回のオリンピックは、招致前はコンパクト五輪を標榜し、1兆円未満の予算と既存の施設を活かした低予算開催を声高にアピールしていたにも関わらず、いざ招致が決定すると、旧国立競技場を取り壊した後で建設費用が当初の試算の約3倍程度になるという見通しが明らかになるなど、それ以外の予算もどんどん膨れ上がり、コンパクト五輪なんてのは羊頭狗肉で、オリンピック利権に集まる一部の者が金儲けをする為に開催される大会的な印象が広まった為、
一部の企業や人々はオリンピックで散々儲けるのに、なぜ一般市民は無償で労働力を提供しなければならないんだ
と感じた人達が、冒頭で紹介したような批判を行っているのだろう。
そんな観点で考えれば、というか、基本的には自分も似たように2020年の東京オリンピック開催を受け止めているので、というか、東京に限らず先月行われた平昌冬季オリンピック・パラリンピックも、前回のリオ大会も、スポーツ振興とか平和な社会の推進とか、人類の調和のとれた発展とか、元来オリンピックが開催されることになった目的が蔑ろにされ、政治だとか利権だとかの為にアマチュアスポーツがいいように利用されているようにしか思えない、というのが現在のオリンピックに関する受け止めだ。東京大会開催に関しては国立競技場が立て替えられるなど、少なからず国の税金が投入されていること、都民ではないが、自分の住む自治体でも一部の競技が行われることになっており、相応の負担があることは納得できない。だから、批判している人達の感覚にある意味では共感を覚える。しかし、ボランティアの募集に目くじらを立てる事には、基本的にはあまり賛成できない。前述のように、募集条件に納得できないなら参加しなければよいだけの話だからだ。
だが、この記事で指摘したような経緯を理解せず、ボランティアに参加しようと考えている人もいるだろうから、彼らに対して注意喚起を行うという意味合いで批判をすることは相応の合理性があるように思える。若しくは、施設建設などは企業が業務として請け負ってその業界の仕事が増えることになるのに、外国語や手話での案内業務、イベント運営業務などがボランティアで賄われるという事は、それらを生業としている人達にはオリンピック開催の恩恵が回ってこないということでもあるから、そのような視点で考えれば、不公平だと言えるかもしれない。
要するに、2020年の東京オリンピック・パラリンピックに関するこれまでの杜撰な試算などで、一部の企業などが儲けられるだけ儲けようとしているように見えてしまっていたり、招致に関連したスピーチの中で安倍総理が事故を起こした福島原発を、今ですら汚染水問題も未解決、廃炉の見通しも不透明なのに「アンダーコントロール」などと言ったり、前回大会の閉会式で自らゲームキャラクターに扮装して登場したり、先月の平昌オリンピックに関するSNSへの投稿で、各国首脳は選手の画像などで称えたにも関わらず、日本の首相だけは本人の画像を投稿するなど、政治的に利用できるだけ利用しているように見えていることなどが、このような批判の元凶なのかもしれない。
言い換えれば、オリンピックそのものへの不信感によって起こるべくして起こっている批判なのかもしれない。