昨日自分のツイッタータイムラインに、「ある家庭科の先生が生徒にミシンの使い方を教えないらしい、その理由は『ミシンなんか使ったら愛情がなくなる』から」という旨のツイートが流れてきた。それが以下のツイートだ。
中2の娘の家庭科の先生(そこそこ年の女性)が、毎年ほとんどミシンを教えないらしい。エプロンもナップサックも全部手縫い。どうしてそんなに非生産的な事を…と聞いたら「将来子供ができたときミシンなんか使ったらお母さんの愛情がない」みたいな事を平気で言うらしい。家庭科教えないでほしい…。— しょうか@中身が赤い肉食いたい (@shouka0716) 2018年4月19日
本当にミシンの使い方を教えない先生がいるのかは定かでないが、もし本当にそんな先生が存在するのなら、学習指導要綱との整合性に問題はないのだろうか。Googleで”家庭科 ミシン 指導要綱 中学”で検索し、最初にヒットした文科省の中学校学習指導要領解説 技術・家庭編(平成20年7月)を見ると、70ページの「小学校家庭,中学校技術・家庭家庭分野の内容一覧」の小学校家庭・C 快適な衣服と住まい、に”ミシン”の文言はあるが、中学家庭分野・C 生活・住生活と自立(裁縫分野が含まれる項目)、の中には確かに”ミシン”という文言は見当たらなかった。しかし、
ここで早合点してはいけない。中学家庭分野・C 生活・住生活と自立、に含まれる各項目を解説するページを見れば、その中には「製作に使用するミシンについては、小学校での学習を踏まえて、使用前の点検、使用後の手入れとしまい方、簡単な調整方法などを指導する」など、ミシンの使用法の指導に関する複数の文言があり、中学校の家庭科でもミシンの使い方を教えることが盛り込まれている。ということは、ミシンの使い方を、”ほとんど”という表現があるので一切ではないかもしれないが、教えないのは不適切だと言えそうだ。また、前述のツイートには続きのツイートがある。それは、
手縫いが基本なのはわかるし、必要だけどさ、ミシンじゃ愛情が伝わらないとか意味がわからないし、将来絶対ミシン使える方が良いんどけど…。だから娘の中学の卒業生ミシン使えない子結構いるらしくて…。お母さんの愛情なんてたにんがはかるもんじゃないっつーの。ミシン使えるのって大切でしょ…。— しょうか@中身が赤い肉食いたい (@shouka0716) 2018年4月19日
という内容だ。もし、実際に「卒業生にミシン使えない子が結構いる」のだとしたら、一切ミシンの使い方を教えていないわけではないとしても、教え方が充分ではないと言えそうだ。しかも、そんな状況になっている理由が 「将来子供ができたときミシンなんか使ったらお母さんの愛情がない」という教師の主観に基づいているのだとしたら、全く容認できない。
教員がミシンの使い方をしっかり教えつつも「私は出来ればミシンを使わず、全て手縫いで仕上げたい」と自分の思いを生徒に語るぐらいなら、流石に明らかに不適切とは言えない。しかし、ここまで紹介した経緯を勘案すれば、教員の主観的な価値観を一方的に生徒へ押し付けているとしか言えない。
「ミシンを使うと愛情が減る」と聞いて連想したのは、月曜日(4/23)に放送されたテレビ東京・世界!ニッポン行きたい人応援団だ。この回には、一枚の金属板から湯沸かし(分かりやすく言えばヤカン) などを、金槌などで打ち出して成形する鎚起という技法の職人・上野彬郎さんが出演していた。一枚の金属板からヤカンを成形する技法には長い伝統があるそうだ。成形の過程の中で金属を熱する工程があるのだが、熱するのにガスバーナーを使用していた。「ミシンを使うと愛情が減る」と使い方を教えない教員は、「ガスバーナーなんて以前は存在しなかった便利な道具を使ったら、伝統工芸品としての価値がなくなる」などと言いいそうだ、と想像してしまった。新しい道具、と言ってもミシンもガスバーナーも既にそんなに新しい道具でもないが、それを使うと愛情がなくなるとか、伝統工芸品の価値がなくなるのなら、「自動車や電車・飛行機で移動して人に会いに行くのは誠意が感じられない、徒歩でこそ誠意が伝わる」とか、「炊飯器でご飯を炊くなんて楽したいだけの者がやる行為」とか、「インターネットなんて以ての外、電話も似たようなもので、遠くの人に何かを伝えるには飛脚か早馬」なんてことにもなりかねない。というか、どこで線を引くかの問題だから、突き詰めれば旧石器も土器も発明?登場?以前は人間の使っていなかった便利道具だし、当然衣服なども同様の便利道具だから、猿と同じ様な、というか一部には、猿やラッコなど原始的な道具を使う動物もいるので、動物よりも更に原始的な生活を送らないと「生きてる価値がない、若しくは下がる」なんてことにもなりかねない。
流石に前段の後半部分が極端すぎるのは自分でも分かっているが、自分がこの件から感じるのは、小学校では今年から、中学校では来年から道徳が評価を伴う教科になることへの懸念だ。言い換えれば、確実に誰もに共有されるべきような根源的な道徳感以外の、誰かの主観的な道徳観が他の者、しかも子どもに一方的に押し付け、又は強制されるような事になりかねないという懸念だ。これらのツイートの内容が大きく実態と乖離していないのなら、道徳の授業が評価を伴う教科になる前から既に、教員の主観的な道徳観は生徒に押し付けられているケースがあるということが分かる。道徳感を教えて道徳観を評価する教科ですらないのに、誰もが共感するべき普遍的な道徳観とは思えない教員の主観が押し付けられているのなら、道徳感を主に扱う教科で、しかも評価を伴うなんてことになれば、そのような事態は今より更に増えるという懸念を感じるのは全く不自然ではないだろう。
先月文科省が名古屋の中学校の授業内容に対して、一部の国会議員の指摘を受けて、高圧的な調査を行ったということが問題になったが、それについて文科省は「問題はない」という姿勢を貫いている。このような状況も勘案すれば、道徳の、評価を伴う教科化は、国に都合の良い道徳観を強制するようなことに確実になるとまでは言わないが、その懸念は著しく大きいと言わざるを得ない。