スキップしてメイン コンテンツに移動
 

ルールの本質


 昨夜久しぶりに銭湯を利用している時にふと思った。銭湯や温泉などの多くが設けている、「刺青のある方お断り」「手ぬぐいを湯舟につけない」「水着を着て入浴しない」などのルールには果たして合理性があるだろうか。どのルールも、ルールとして明示されていなくてもそのような認識は、恐らく自分が物心ついた頃、少なくとも数十年前には既に多くの人が暗黙のマナー的に共有していたと思う。どのルールも全く合理性がないとは自分も思わないが、これらの公衆浴場の一般的なルールに限らず、昨今「ルールだから守れ」のように、ルールの本質を一切勘案せずに、一方的に、場合によっては理不尽に押し付けられていることも決して少なくない、または逆に、ルールの文言・字面だけに注目し、ルールの本質から目を背けて曲解する場合も増えているように感じる。


 自分は一人で旅行に出かけると、現地のスナック的なバー?を利用することが良くある。スナック系の酒場では従業員や地元客と気軽に話せる機会が多く、翌日の観光の情報収集にもなるし、宿で一人で酒を飲むより確実に楽しい。ドアに「会員制」とか「一見さんお断り」などの札が掲げられている店も少なくないが、大概一見でも断られない。勿論全ての店がそうとは言えず、本当に一見客を断る店もあるし、常連客の誕生日か何かで、内輪だけで盛り上がっているなどの理由なのだろうが「会員制」を理由に断わられたと感じるような場合もある。要するに、「会員制」「一見さんお断り」などと書いた札を掲げている店の殆どは、実際には「会員制」「一見さんお断り」ではないが、質の悪そうな客を断ったり、その日の雰囲気に合わなそうな客を断りやすいように、その手の札を目立つ場所に掲げているのだろう。
 自分が子供の頃、というか、現在でも地元の銭湯では「刺青お断り」と一応利用規約に書いてあるにもかかわらず、ちょくちょく背中に竜や鯉・般若を背負ったお兄さんやおじさん、最近ではおじいさんが入浴している。要するに、銭湯やプール施設などで設けられている「刺青お断り」というルールも、元来はスナックがドアに「会員制」「一見さんお断り」の札を掲げるのと同様、面倒くさい客を断りやすくするために設けられたものだったのだろうと想像する。確かに自分が子供の頃は、刺青を入れている人の多くは所謂ヤクザとか準ヤクザのような人がその大半を占めており、そのような人の中の面倒くさい人の割合は、一般市民のそれを遥かに上回っていたのだろうから、「刺青お断り」というルールが出来たのだろうと想像する。しかし、実際に全ての刺青を入れた人を排除するようなことはなく、店主の判断でルールが運用されていたのだろう。
 しかし、昨今「ルールはルールだから守れ」的に、苦情を申し立てる者が増え、施設側も一応ルールはルールだからと対応した結果、本来の目的とは異なるようなルールの運用がされるようになった、言い換えれば、「刺青お断り」というルールだけが独り歩きし始め、日本人より気軽に刺青を施している外国人観光客まで排除するような事態が起きているのだろう。それは刺青=社会不適合者かのような偏見を助長している、若しくは差別している恐れもあり、自分には好ましい状況とは全く思えない。


 昨年・2017年、10/28の投稿で取り上げた、校則による黒髪強要問題が注目されて以降、所謂ブラック校則、必要性が感じられない理不尽な校則がしばしば話題になっている。それらの多くも、元来何らかの懸念への対処の為に設けられた規則だったのだろうが、何への対処なのかが教員の間ですら共有されることもなく、納得のいく説明など一切無しに「ルールだから守れ」的に生徒へ強制され続けているものだ。このような事からも分かることは、私たち日本人には協調性が高いという長所があるが、それはある意味では「ルールや規則を妄信しがち」という短所でもあるということだ。
 余談だが、具体的にどこが報じたかは失念したが、昨年の夏ごろ見かけた報道、男性がうなじに欲情する恐れがあるという理由で、ポニーテール禁止というブラック校則としか思えない規則を設けている学校があるそうだ。一方で、数日前に韓国の歌手らが北朝鮮で公演を行い、所謂K-POPの女性グループも歌とダンスを披露したのだが、北朝鮮ではK-POPなどは「国民を堕落させる資本主義の退廃的な文化」とされていることを複数の報道機関が報じていた。どの番組だったかは失念してしまったが、ある番組では、北朝鮮では、資本主義の退廃的な文化同様、ポニーテールが全国的に禁止されているとしていた。この話についての真偽は定かではないが、もし仮にこれが本当なのだとしたら、ポニーテール禁止というブラック校則が未だに存在している学校は、戦前のような、若しくは北朝鮮当局と似たり寄ったりの感覚で教育を行っている、流石に全てが北朝鮮的とは言えないだろうが、少なくとも生徒の管理手法における感覚は北朝鮮当局と大差なしと言えそうだ。


 銭湯のルールに話を戻すと、「手ぬぐいを湯舟につけない」についても少なからず合理性に関して疑問を感じた。なぜこのようなルールが必要なのかと考えると、恐らく体を洗う際に洗剤を付けた手ぬぐいを、よく濯がずに湯舟につけられると、湯舟のお湯が汚れるからだろう。または、最近は手ぬぐいを貸してくれる施設も増えたが、以前は手ぬぐいなどは個人が持参するもので、必ずしも洗濯済みの清潔な状態とは限らず、汚い手ぬぐいが湯舟に持ち込まれることを防ぐ為、そして、清潔か否かを判断する手間や、それに伴う軋轢を起こさない為に、ちゃんと洗濯してあろうがなかろうが関係なく、手ぬぐいを一切湯舟に持ち込まないこと、というルールが出来たのではないかと推測する。恐らく「水着を着て入浴しないこと」というルールもそれと似たような意味合いのルールだろう。
 しかし、それは逆に言えば、綺麗な手ぬぐいだったら湯舟につけても問題ないのだろうし、水着も同様で、綺麗な水着を着て、更に水着に石鹸などが残らないように、体を洗うなどしなければ、着用して入浴しても大きな問題はないのではないか?と自分は思う。というか、汚れた水着や手ぬぐいは確かに湯舟につけて欲しくないと自分も思うものの、手ぬぐいや水着ではなくても、体や頭を洗った後に充分に濯がずに湯舟に入る人をしばしば見かけるので、流石にそれを肯定するつもりは一切ないが、手ぬぐいや水着に少量の洗剤が付着する恐れについては、感覚が過敏すぎるとも言えそうだ。また、水着ではないが混浴風呂などでは入浴着を貸し出している施設もある。それと手ぬぐいや水着は一体何が違うのだろう。
 そもそも、公衆浴場の湯舟に過剰なまでに清潔さを求めるのなら、施設の利用をあきらめた方がよいのではないだろうか。最近は一部で「湯舟に入る前に体を良く洗うこと」などが絶対的なマナーかのように言われ始めているが、自分が知る限り、そんなマナーはこれまでは無かった。勿論明らかに泥だらけ・砂まみれなど汚れていたり、スポーツ後など大汗をかいた後は、自分も当然湯舟に入る前に体を良く洗うが、そうでなければかけ湯をすれば、入念に体を洗わなくても湯舟に入って何も問題ないのが、日本の公衆浴場の利用法だったはずだ。というか今でもそのように考えている人は決して少なくないと感じる。要するに、元来公衆浴場の湯舟は、各利用者がある程度は清潔さに留意する必要はあるのだろうが、逆に言えば、公衆浴場のなのだから、ある程度は「そういうものだ」と受け止めなければならないとも言えそうだ。
 個人的には「手ぬぐいを湯舟につけない」「水着を着て入浴しないこと」というルールが理不尽だとまでは思わないが、一体どのくらいの人が、そのルールが何故あるのかを考えたことがあるのかに関しては、ある程度の懸念を感じる。要するに、これに関しても「ルールはルールだから守れ」的な思考に陥っている可能性があるかもしれない。


 何が言いたかったのかと言うと、日本人は協調性を美徳と考える傾向が強い為、一度ルールと決まれば、「ルールだから守るべき」と考える傾向も同時に強く、ブラック校則の問題などからも分かるように、ルールが現状にそぐわなくなるなど内容に問題が生じても、それを維持しようとする性質があるということだ。という事は、昨年成立してしまった、国家や警察権力が濫用できる懸念がある共謀罪のようなルール、3/23の投稿で触れた東京都の迷惑防止条例改正案など、内容に不備のある恐れのあるルールの制定には注意を払わなければならないということだ。
 勿論そんなことは日本に限らず、全ての法治国家で言える事なのだが、政権が憲法の精神を無視して召集要求のあった臨時国会で議論が出来ないように即日解散したり、国民の共有財産である公文書が官僚によって改ざんされるという前代未聞の自体が起きたにもかかわらず、誰も責任を取らないような状態が続いていること、それに関わった者が事実と異なる答弁を国会でしていたにも関わらず、詭弁を駆使して「虚偽とは考えていない」などと言っている事などを考えれば、既に一部の権力者たちがルールを悪用して責任逃れに躍起になっているようにも思え、誰もが「ルールとは一体何なのか、そのルールは何の為にあるのか、何の為に必要なのか」ということについて、今一度考え直す必要があるように思う。


 トップ画像は、Free-PhotosによるPixabayからの画像 を使用した。

このブログの人気の投稿

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

読書と朗読を聞くことの違い

 「 本の内容を音声で聞かせてくれる「オーディオブック」は読書の代わりになり得るのか? 」という記事をGigazineが掲載した。Time(アメリカ版)の記事を翻訳・要約した記事で、ペンシルベニア・ブルームスバーグ大学のベス ロゴウスキさんの研究と、バージニア大学のダニエル ウィリンガムさんの研究に関する話である。記事の冒頭でも説明されているようにアメリカでは車移動が多く、運転中に本を読むことは出来ないので、書籍を朗読した音声・オーディオブックを利用する人が多くいる。これがこの話の前提になっているようだ。  記事ではそれらの研究を前提に、いくつかの側面からオーディオブックと読書の違いについて検証しているが、「 仕事や勉強のためではなく「単なる娯楽」としてオーディオブックを利用するのであれば、単に物語を楽しむだけであれば、 」という条件付きながら、「 オーディオブックと読書の間にはわずかな違いしかない 」としている。

あんたは市長になるよ

 うんざりすることがあまりにも多い時、面白い映画は気分転換のよいきっかけになる。先週はあまりにもがっかりさせられることばかりだったので、昨日は事前に食料を買い込んで家に籠って映画に浸ることにした。マンガを全巻一気読みするように バックトゥザフューチャー3作を続けて鑑賞 した。

敵より怖いバカな大将多くして船山を上る

 1912年に氷山に衝突して沈没したタイタニックはとても有名だ。これに因んだ映画だけでもかなり多くの本数が製作されている。ドキュメンタリー番組でもしばしば取り上げられる。中でも有名なのは、やはり1997年に公開された、ジェームズ キャメロン監督・レオナルド ディカプリオ主演の映画だろう。