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現状のSNSに存在する問題と必要な対応


 BuzzFeed Japanが掲載した「YouTube本社銃撃でデマが続々 凍結措置も追いつかず」という見出しの記事や、Facebookの個人情報大量流出に関する報道などを見ていると、そう遠くない将来、ツイッターやFacebookなどSNS上で流通する情報は信憑性が低いものも多い、そして決してセキュリティの高いサービスとは言えない、などの認識がより一般的になり、少し前の2chなどと同様にバブル的に膨れ上がった過剰評価期から衰退傾向に向かうのではないか、と感じる。衰退という表現に違和感を感じる人もいるかもしれないが、言い換えれば最盛期は既に通り過ぎ、2chが「便所の落書き」と揶揄されたのと同様に、相応の評価に落ち着くのではないだろうか。これまで様々なWebサービスが登場し、盛り上がっては引き潮状態になってきたのを見ていると、ツイッターやFacebookなどのSNSもそろそろ同じ道を辿るのだろうと感じる。どんな動画でも規約の範囲内で注目さえ集めれば広告収入化出来ていたYoutubeは、既に好ましいとは言えない動画へ批判を受け、その対策の為に広告収入化へのハードルを上げている。一説によると、これまで広告収入を得ていた者の内の10%程度しか収入が得られなくなったそうだ。それはある意味で、利用者が自ら招いた広告収入バブルの終焉なのかもしれない。


 SNS上ではテレビや新聞などの既存マスメディアに対する疑念を、場合によっては過剰に示す人達が一部に存在しているが、結局のところ、何かの取材や検証に基づいた懸念でない単なる個人の思い込みがその大半を占めるように思う。勿論どんなに個人的な推測や受け止めだろうが、「と思う」とか「かもしれない」などの表現で疑念を表現するのはある程度許容するべきだ。ただ、それなりの表現力を持たない一部の人には、と言っても、国会議員や文筆家など言葉を生業にする人の中にもそのような人はいるので、表現力のあるなしとはあまり関係ないのかもしれないが、特にツイッターでは文字数制限の影響もあり、本来断定できないような大した根拠もない単なる自分の思い込みを、まるで紛れもない事実かのように言いきったり、時には合理性のある根拠に基づいているとは言えないような事でも、感情的にそして過剰に汚い表現で煽ったり罵ったりする傾向がある。
 恐らく、彼らは自分たちがツイッターやFacebookなどSNSという巨大なメディアの一端を担っているという認識が薄い・若しくは全くないのだろう。彼らが大した根拠もなく既存メディアを偏向しているとか、根も葉もないことを利益目的で報じていると言えば言うほど、SNSというメディアの信頼性を下げることに繋がる。要するに、既存メディア以上に信憑性に欠けるメディアなのがSNSという実績を自分たちで積み上げているように思える。
 このような傾向は、3/29の投稿4/3の投稿など、自分が毎朝見ているMXテレビ・モーニングCROSSで画面に表示される視聴者ツイートの中で違和感を感じるものを取り上げて、適切とは言えないと指摘してきたことからも理解してもらえると考える。
 
 朝日新聞の記事「偽ニュース対策、1日で撤回 インド政府、猛反発受け」によると、インド情報放送省は、4/2にフェイクニュースを報じた記者の記者証を失効させるという規制を突然発表したそうだが、フェイクニュースの定義が明確にされなかった為、報道統制に繋がるという猛反発を受けて翌日撤回したそうだ。インド記者クラブの会長は、

来年にも予定される総選挙を前に、政権はメディアから受けている批判を許せなかったのだろう

と話したそうだ。政府側にフェイクニュース対策にかこつけて報道を統制しようという意図があったかどうかは定かではないが、フェイクニュースの定義が明確化されていないのに規制だけが進められるようならば、反発が起きるのも当然だろう。明らかにフェイクニュースと認定できるような報道・記事もあるだろうが、いくつかのケースを見る限り、事実誤認なのか意図的に報じられたフェイクニュースなのかの線引きが難しいこともしばしばある。
 また、NHKの記事「ツイッター社 テロ称賛の121万アカウント閉鎖」という記事によると、ツイッターは昨年末までの2年半の間に、テロを称賛するようなツイートなどをしていたアカウント計121万件をBAN・要するに閉鎖したそうだ。この記事で触れられているのはテロに関する利用規約違反だけのようだが、日本のツイッターでもヘイトスピーチなど差別・誹謗中傷に対する対策が以前より確実に進んでいる。まずは当該ツイートの削除という対応のようだが、悪質なアカウントは利用停止にしたり、BAN・アカウント閉鎖してツイッターから排除するという対応も、これまでよりは積極的に行われているようだ。
 
 この2つの件から自分が感じるのは、削除・排除するべき不適切な情報発信かどうかの判定・それに対する対処の難しさだ。確かに意図的に流されるフェイクニュースや、テロを助長するような主張・差別的な言動・誹謗中傷などへの対策は確実に必要だ。しかし、インドの件を見れば分かるように、対処が必要以上に厳しければ、言論統制に繋がったり報道や一般市民が主張することを委縮させかねない。また、行き過ぎた対処は、別のベクトルの差別や偏見に繋がる恐れもある。NHKが報じたツイッターの記事を見ると、適切に対策がなされているようにも見えるが、テロ助長とか差別的とは言いきれない内容でも、不適切だという報告が一定数以上なされれば、機械的に投稿が削除されたり、一時的に利用停止処分が科されるなど、必要性があるとは思えない処分などもしばしば起きているという記事も見かける。NHKの記事で紹介されている閉鎖されたアカウント121万件の中にも、そのようなケースがあるのかもしれない。
 
 SNS上に撒き散らされるテロを称賛するような主張や、冒頭でふれたような事実に即しているとは言えないような見解、または性別・民族・人種・出自などで誰かを差別するような主張は、確かに容認できないし適切とは思えないが、ある意味では彼らがそのような主張をネットに吐き捨てることで、実社会での行動が抑制されている側面もあると自分は思う。ネット社会以前から似たような主張をする人が居たことやこれまでの歴史を考えれば、恐らくそのような主張をすること、そのような思考を一部の人が持ってしまうことは、ある種人間の本能的な性質で、犯罪がいつまで経っても決してゼロにならないのと同様に、根絶することは不可能だろうと自分は思う。人間誰しも一度くらいは後で後悔するような罵声を口にしたことがあるのではないだろうか、若しくは口にしたくなったことがあるのではないだろうか。
 再確認しておくが、自分は「だから仕方ない」と言うつもりは全くない。勿論ダメなものはダメとハッキリ言わなければならないし、悪いことをすれば相応の罰が与えられるのは、抑止という観点でも決して間違っていないだろう。しかし、問題のあるアカウントを閉鎖して口封じをしたところで、ある程度思考の固まった考えを変えさせるには至らないと思う。勿論、よく考えもせずにお祭りに参加するような軽い気分でバカげた主張をしている10代以下の若者のような人達など、ある程度は取り除けるかもしれない。しかし結局は根本的な解決には繋がらないように感じる。それを感じたのは、昨日・4/5の投稿でも触れた、大相撲春巡業で、救命処置に駆け付けた女性に対して「女性は土俵から下りてください」というアナウンスがあったことに関して、ある元力士の相撲協会関係者がテレビ番組の中で、緊急の場合は除くとしながらも、あくまで土俵上は伝統的に女人禁制で、今後もその伝統を守るべきと頑なに言い続けていた姿を見たからだ。彼はなぜそのような伝統が出来たのかも明確に答えられなかったし、「今は伝統を見直すいい機会だ。今後、女性総理大臣が誕生した場合、総理大臣杯授与はどうするのか」と問われても、明確に返答できずにいたが、それでも「伝統だから守るべき」との頑なな姿勢を崩さなかった。
 
 確かにネット上では、ネットを介さなければ出会う可能性の低かった、差別を容認したり支持したり、テロを称賛したりするような、社会的には多数派とは言えないような過激な人達が、簡単にお互いを見つけることが可能で、ネット普及以前は、彼らのようなタイプは少数派であると感じることで、ある程度自分の思考の不適切さを認識していたのだろうが、似たようなタイプがネットを通じて意見交換するなど集合することによって「このような思いは自分だけではない」と感じ、増長したり盛り上がったりする傾向があると思う。また、多様性の尊重とか表現の自由を曲解している側面もあるだろう。それがこれまでで最も深刻化しているのがまさにSNSが深く生活に密接した現在なのだろう。
 しかし、アカウントを凍結するなど彼らがSNS上で一切情報発信できなくしてしまうことは、決して好ましくないように自分には思える。規制を強めるということは前述のように言論統制の危険性を孕んでいるし、規制が強まれば、動機が薄いものを止めさせる効果がある反面、強い動機を持つ者をアンダーグラウンド化させる恐れ、場合によってはこれまでネット内で済んでいたことが今以上に現実世界に溢れてくる恐れもある。確かに今でも既に欧米などで白人至上主義団体が増長しているようだし、自分の知る限り日本でも、嫌韓嫌中感情を恥ずかしげもなく差別的に主張する、所謂ヘイトスピーチがこれまでで最も盛り上がってしまっているようにも感じられ、「これ以上悪くなるなんてことはないのではないか?」とも思えるが、それでも、どんな口であろうが口を塞ごうとすることが効果的な対策とは思えない。勿論、全ての主張には責任を伴うので、不適切な発言には相応の代償を科すのは当然だろうし、一時的な排除ならばそれもありだろうが、永久追放的な強力な排除には賛同できない。
 しかし、フェイクニュースは思い付きで次々生み出されるのに、事実確認・フェイクニュースの認定には相応の労力が必要で、確認・認定が追いつかないという状況、フェイクニュースのセンセーショナルな見出しや記事の方が、検証記事よりも注目を浴びてしまう現状を考えれば、不適切な発信を行う者の口を塞ぐという対応も仕方ないのかもしれない。そんな意味で考えれば、問題のある言動を繰り返す者を、ある程度交通違反した者の自動車免許の停止処分と同様に、一定期間ネット接続停止処分を科すなどの方法を検討する必要があるかもしれない。

 ただやはり個人的には、アカウントを利用停止にしたり閉鎖したとしても、大多数は何等かの方法で新たなアカウントを開設し、同様の主張を繰り返す、若しくは場所を変えるだけだろうと感じる。ということは、利用停止や閉鎖の処分で口を塞いだところで有効性が高いとは言えず、副作用的に言論統制の傾向が強まる恐れだけが残ることにもなりかねない。そして、強い動機を持つ者の思考は結局変えさせられないだろうから、できることは動機が薄い者への影響を最小限にすることだろう。そんな観点から自分は、必要なのは不適切な主張をしている者の口を塞ぐことではなく、不適切な主張の不適切な点を地道に指摘し続けることだと思う。だから、3/29の投稿4/3の投稿などのように適切な受け止めとは思えないツイートを取り上げて指摘する投稿を書いているし、そのようなツイートを取り上げて番組中に画面に表示するなら、番組内で相応の指摘をして欲しいとも書いている。
 言論の自由の担保、考えが異なる者がそれなりに尊重し合うこと、暴力団規制を強めた結果、所謂半グレが増えて実態がより分かり難くなったのと似たような、強い規制が副産物に生み出す恐れなどを勘案すると、やはり必要なのは口を塞ぐことよりも、地道に指摘し続けていくことと、情報の真偽や質に関わらず注目さえ集めれば収益化出来る状況の改善なのだろうと感じる。

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