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批判と中傷


 「SNSの何気ない投稿への批判、限界まできてない?」、今朝のMXテレビ・モーニングCROSSで、シモダテツヤさんが、各コメンテーターがそれぞれ独自にテーマを掲げて問題提起したり解説するコーナー・オピニオンCROSSで投げかけたテーマだ。このオピニオンに合わせたのだろうが、今朝の番組視聴者投票はの設問は「SNSで批判や中傷を受けたことがありますか?(回答選択肢ある/ない)」だった。


 シモダさんが何を訴えたのかと言うと、


 空港で搭乗券や搭乗待ちの様子をSNSに投稿する中年男性を、主に20代の女性が煙たい・ウザい・不快などと表明する行為、通称「 #エアポート投稿おじさん 」(現在このタグはそのような空港での投稿の何が悪いのか?という趣旨で主に使われている)について、


「この程度なら別によくない?」という話だ。シモダさんは、空港で搭乗券などを写真にとってSNSに投稿する行為を煙たがる主張の例として、



  • みんなが今過ごしている東京を自分だけが離れて非日常的な場所に旅立つことをアピールしたくて仕方がない
  • 空港第2ビルに着いた瞬間に浮かれてんじゃねーよ
  • おなじような毎日を過ごすサラリーマンにとって空港という場所がかなり 非日常的な場所だからなんだろうなぁ

などを挙げていた。そして「なぜこんなにも上から目線なのか」という疑問を呈していた。個人的には、日頃から少しウザいと思っている知り合いが、エアポート投稿おじさん的な投稿をしているのを見かけたら、これらの例と同様に感じるかもしれないとは思うものの、その心の声をリプライとして残すようなことはしないだろうし、そもそもウザいと思っている人の投稿を見たいなんて思わないので、そんな人のSNSアカウントを自分はフォローしない。と考えながらこのフリップを見ていた。
 自分の友人に、特定の共通の知り合いのツイートを「オタクくさくて気持ち悪い」「何が言いたいのか分からない、病的」だと、しばしば自分に(ツイッター上でなく直接口頭で)言ってくる者がいた。「そんなに不快なのに何でフォローしているの?」と聞いてもいつも要領を得ない答えばかりだった。彼は「フォローを止めたところで、共通の友人がリツイートするだろうから結局そいつのツイートは目に入ってくる」という旨の理由をフォローを止めない理由として挙げていたこともあった。「フォローを止めれば気に入らないツイートが目に入ってくる機会は格段に減るだろうし、それ程嫌ならリツイートする人も含めてフォローを辞めたらどうか?」と聞いてみたが、やはりその回答は要領を得なかった。彼は誰かを下に見て自分の存在価値はコイツより高いと思いたいだけなんだろう、と自分は思っていた。

 シモダさんは更に、このような主張がエスカレートして有名人に向けられる例をいくつか紹介していた。


これらの例の中でも特に恣意的な言い掛かりでしかないと自分が強く感じたのは、「中学生が1000円するカツ丼を頼むのは早い」と「本当のイチゴ好きなら練乳はかけない」「そのまま食べろ」だ。
 中学生だろうが誰だろうが何を食べようが個人の自由だし、藤井六段は学生ではあるが既に稼いでいるプロ棋士だ。個人的には彼がどんなお金の使い方をしようが彼に苦言を呈すのは保護者の役割だろうから、外野がどうこう言うべきではないと思うが、例えば、彼が賞金のほぼ全てをメイド喫茶などに湯水の如く注ぎ込んでいるというような状況なら「中学生にはまだ早い」という批判もある程度は容認できるかもしれない。しかしカツ丼1000円程度で「中学生にはまだ早い」は、酒の席での明らかな冗談・話のネタなら理解できるが、わざわざSNSに投稿する必要があるだろうか。恐らく投稿している側は酒の席での明らかな冗談・話のネタのような認識なのだろうが、特にツイッターのような短文投稿SNSでは冗談であるというニュアンスが必ず伝わるとは限らない。誤解を招かないようにするにはツイートの公開範囲を、自分の投稿の行間まで読んでくれるであろうフォロワー限定にするとか、「冗談である」ということが確実にわかるような文言を盛り込んで投稿する必要があるのではないだろうか。
 「本当のイチゴ好きなら練乳はかけない」「そのまま食べろ」に関しても、容認できる点は一切ない。採れたてだろうが練乳をかけたい人は確実にいる。だからイチゴ狩り農場には大抵練乳が置いてある。また「本当のイチゴ好きは練乳をかけない」と個人的に考えることは自由だが、それを他人にまで強制するような姿勢には全然賛同出来ない。「そのまま食べろ」に関しては、なぜそんな頑固なラーメン屋の親父のようなセリフを見ず知らずの他人に言われなくてはならないのか?としか思えない。「そのまま食べろ」「本当のイチゴ好きは練乳をかけない」と言っている人達は、「練乳をかけてイチゴを食わない奴は本当のイチゴ好きではない」と強制的に認定されたらどう感じるだろうか。

 シモダさんはこのような風潮がエスカレートすると、


  • 「おはよう」とツイートしただけで「世の中には寝たくても寝れない人がいるんですよ!」と批判される
  • コンビニに行ったことを投稿しただけで「私の近くにはコンビニがないのに!」と怒られる
  • Twitterでフォローしただけで「フォローするな!」と怒られる

なんて状況にもなりかねない、という懸念を示していた。このフリップを見ていて自分が思い出したのは、財務次官の発言がセクハラにあたるかどうかの議論の中で、「自分は全然気にならないからセクハラじゃない」とか「自分の彼女(若しくは妻)はあんなの問題じゃないって言っているのに、何をそんなに騒いでいるのか」という、かなり個人的な判断基準が世の中のスタンダードだと言わんばかりに「問題ない」と主張している人達の存在だった。
 また、自分はこのブログでしばしばモーニングCROSSの中で画面に表示される視聴者ツイートを引用しているが、公開しているツイートなのに「何勝手に引用してんだよ」と怒り出す人もいたし、違和感を感じたツイートに対して反論する内容のリプライをした際に「リプライするな」とキレられたこともある。シモダさんが示した懸念は既に現実になっていると自分は感じている。

 シモダさんの言うように”SNSの何気ない投稿に対する”恣意的な批判が横行している状況には自分も疑念を感じている。しかし、今朝の視聴者投票の「SNSで批判や中傷を受けたことがありますか?」という設問設定には、ある種の問題があると感じた。昨年「「批判なき選挙、批判なき政治」をめざす」とツイートした自民党の女性議員がいたが、批判の中には前述のような不適切な批判もあれば、当然適切な批判もある。批判と中傷とを同列に併記してしまうと、批判=総じて不適切な中傷と大差ない行為・主張、という誤った認識を助長しかねない。この設問とシモダさんのオピニオンの都合のよい部分だけに注目して解釈し、適切な批判を受けた場合に”批判自体”が恥ずべき行為かのように主張する者を生んでしまう恐れがある、と今朝のモーニングCROSSを見ていて自分は感じた。
 恐らく番組視聴者の大半はそんな馬鹿げた解釈はしないだろうが、MXテレビは一地方独立局とは言え、モーニングCROSSは地上波放送と同時にネット放送もしているし、見ている者の中にはそんな勘違いをする者が絶対にいないとも言い切れない。もう少し適切な表現を心掛けなければ、

「中学生が1000円するカツ丼を頼むのは早い」は酒の席での冗談・話のネタのつもりで投稿したのに、冗談であると解釈出来ない受け手側に問題がある

主張するような人と大差ない意識で番組を作っていると言われかねないのでは?と感じてしまった。

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