ツイッターのタイムラインにこのようなツイートが流れてきた。
1枚目:シャンプーの広告(1932年)— なゆらび (@nayurabi) 2018年5月4日
2枚目:シャンプーの広告(1935年)
3枚目:シャンプーの広告(1965年)
4枚目:シャンプーの広告(1983年) pic.twitter.com/5bMLnEgUB5
見ての通り、1932年から1983年にかけてのシャンプーの広告を4つ紹介している。1932年のコピーは「せめて月2回は!髪を洗ってください」、1935年は「御洗髪は1週1度」、1965年は「夏の髪洗いは5日に1度」、1983年でやっと「毎日洗うからわかるの、髪にやさしいって」と、現在と同じような洗髪頻度感覚になる。というか、最近じゃ1日に何度も入浴・シャワーを浴びるという人も少なくない。特に潔癖症気味なタレントらがそのように公言しているのをしばしば見かける。
1932年と言えば近代から現代への移行期と言えるような時期だ。JICAのサイトで見つけた資料によると、この頃の上水道普及率はおよそ20-25%程度だろう。勿論、水道が無くても井戸水などを利用していただろうか、驚異的に水に不自由だったわけではないだろうが、4つの広告の中で、上水道普及率が90%を超えた80年代でやっと広告に「毎日洗う」となっているし、上水道普及率の上昇と共に洗髪頻度が上がっていくことを考えると、決して無関係ではないだろう。
しかも、1932年のコピーは「せめて月2回は!髪を洗ってください」だ。ということは、一般的にはまだまだ月1回以下しか髪を洗っていなかったと推測できる。勿論シャンプーの広告なので、全く髪を洗っていなかったわけでなく、髪を濯ぐことはもっとあったが洗剤を使った洗髪が月一回以下、という状況だったかもしれない。ただそれにしても現在の感覚とは大きくかけ離れている。
Wikipediaの シャンプー#日本での洗髪の歴史 の項目でも、その頃、そしてそれ以前・近世までの状況についての解説がある。要するに、近代以前まで髪を洗うのに洗剤を用いるなど庶民は殆どおらず、大正以降にならないと洗剤を使った洗髪は一般化しないし、それでも洗髪頻度は月1回程度だったことが窺える。
最近は4/18の投稿でも触れたスメルハラスメントなんてことが指摘されるような状況で、一般的には1日1回の入浴をしていないと不潔とか臭うと言われかねないような状況だ。しかし、自分は子供の頃(1980年代)自宅に風呂がなく、2日に1度銭湯を利用していた。当然夏場も同様だった。小学生の途中で風呂付の家に引っ越したが、当初はそれまでの習慣もあって入浴は2日に1度程度だった。高学年になってサッカークラブに入ると毎日汗だくになるようになったので、だんだん毎日入浴するようになった。友人にはその頃も風呂なしの家に住んでいた者もいて「毎日風呂に入れる風呂付の家が羨ましい」というようなことを言っていた記憶がある。
また、自分はこれまで何度か入院をしたことがあるが、自分の経験上毎日入浴できる病院はなかった。最後に入院したのは10数年前だから、今も似たような状況だろうと想像する。確かに入院生活では激しい運動はしないので汗だくになるようなことはない。しかし夏場などは普通に生活しているだけで相応に汗ばむ。病院とは、一般的な生活以上に清潔さを保つ必要がある環境だと言えるだろうが、夏場でも入浴は良くて2日に1回、週2回程度が一般的なのではないだろうか。勿論清拭は毎日することが出来るだろう。これで清潔さが保てないのであれば、スメルハラスメントよりも大きな問題になっているだろう。
自分が言いたいのは、「入浴・洗髪など月1回、もしくは週1回で充分」ということではない。前述のWikipediaでは
明治時代の美容本「化粧のをしへ」によると、「女の髪の不潔になったのを嗅ぐと小便と同じ臭気がある、小便以上悪臭である」とされている
ということにも触れられており、髪が不潔な状態である者もそれなりにいたことが推測できる。要するに月1回の入浴・洗髪では充分ではないが、当時の状況ではある意味仕方がなかっただけ、ということでもあるのだろう。しかし、激しい運動をしたり夏の暑い時期などで汗だくになっているのに、入浴・洗髪しない者を清潔でない・臭うと指摘するようなことは理解出来るが、汗だくになるような環境でもないのに、1日1回以上入浴・洗髪しなければ不潔・臭うと指摘するのは過剰なのではないか?と自分は考える。しかもシャンプーの香りや洗濯用洗剤の香りまで臭うという者もいるような状況だ。過剰さ極まるとしか自分には思えない。
体臭には個人差があり、汗だくにならなくとも体臭が感じられる人はいるだろう。しかし逆に言えば、人間も他の動物同様体臭があって当然なのであって、それぞれ固有の臭いがない方が不自然だ。確かに自分の体臭や清潔に全く無頓着というのは、他者と共生を現代社会で送っていく上では問題があるだろう。しかし、他者の些細な臭いまで気になったり、自分や家族以外が触ったものを不潔であるかのように扱う風潮は、ある意味で病的に清潔感を追い求めている、言い換えれば、強迫観念のようなものではないかと感じる。
昨今は何かあるとすぐに「とりあえず規制」という風潮があり、生活音にしろ生活臭にしろ、兎に角出さないことが素晴らしいかのような感覚が広がりつつある。自分には他者が出す音・臭い、そして他者が不潔に思えてならない者が過剰に権利を主張し、どんどん息苦しい社会に向かっているように思えてならない。
このようなことから考えても、4/18の投稿で触れた「本人が意図していなくても相手が不快に思えばそれはハラスメント」などという一方的な見解の弊害は大きいと言わざるを得ない。