ジェネレーションギャップという言葉がある。例えば、2000年以降に生まれた世代は公衆電話の使い方を知らない人もいる、若しくは1度も使ったことがない人も少なくない、なんて話が少し前に話題になった。携帯電話が普及して生まれた、若しくは育った世代なら公衆電話を使った経験がなくても何も不思議ではないが、携帯電話が普及する以前に生まれた世代にしてみたら、使ったことが無いのは不思議ではないにしても、使い方が分からないという感覚については「え?なんで?」と思うだろう。昨今の携帯電話には物理的なテンキーがなく、公衆電話のそれとは形もかなり異なるし、大概電話帳からワンタッチで発信する場合が多く数字を打ち込む機会は少ない。しかしそれでも、携帯電話で数字を打ち込んで発信する場合など全くないとまでは言えず、「ならば公衆電話でも発信できるだろう」と推測するから不思議に感じるのだろう。
しかし、使い方が分からない世代が戸惑うのはそこではない。それ以前に受話器を上げてからコインやテレフォンカードを挿入する、ということを知らないから戸惑うらしい。受話器を上げてから(コインを投入して)ダイヤルするというのは、固定電話を日常的に使用していた世代からすればごく当然、当たり前のことだが、携帯電話が主流の世代にとっては全く「当然ではない」ことでも仕方がない。
自分は自分が生まれて以降、厳密には物心ついてから起こった事象について、歴史的な事象という認識が薄い。恐らくそれは、歴史的な事象という認識よりも、日常の中で起きた事という認識の方が強いからだと思う。先週オウム真理教が起こした事件に関連する死刑執行が行われ、改めて地下鉄サリン事件に注目が集まっていたが、2000年以降に生まれた世代は事件について詳しく知らないという者が少なくないということも話題になっていた。
自分が生まれて以降の事象に関して、どんなことも歴史的な事象という認識が薄い自分であっても、地下鉄サリン事件は流石に「歴史的な事象」だと思う。2000年以降に生まれた世代にとっても、流石に事件の概要を知っていたら地下鉄サリン事件は歴史的な事象なのだろうが、それは日常の中で事件を(直接的に被害を受けたわけではないが)経験した自分にとっての歴史的な事象という見解とは、また微妙に差がある認識なのだろうと思う。
地下鉄サリン事件は発生当時から大きな衝撃を社会全体に与えたが、 事案が生じた当時はそれほど大きな社会問題とは認識されなかったが、後年再評価され歴史的な事象だったとわかるような事案もある。例えば、北朝鮮による拉致問題もそのような事件・事象だろう。北朝鮮による拉致が起き始めたのは1970年代とされている。1980年頃にマスコミで外国の機関による拉致の懸念が報じられ始めたが、政府が「その疑いがある」としたのは1988年のことだ。2002年の小泉訪朝で北朝鮮側が拉致の事実を認めたこともあり、今では誰もが拉致問題を当然の事実として認識しているが、1980年代まではそんな感覚が当然とは言えなかった勿論北朝鮮による拉致事件は事実か否かが不明だったわけだから、評価が当時と今で違っても大きな不思議はないが、それでも評価が後々変わった歴史的な事象には違いない。
セクハラやパワハラ事案が報じられると「自分が若い頃はそんなの当たり前だった」というような、被害者側を揶揄するような主張が必ず聞こえてくる。確かに、セクハラ・パワハラの告発が増えたことによって、些細なことでもセクハラ・パワハラと言い出すような者も増えただろうから「過剰にセクハラ・パワハラ認定されたらたまらない」という感覚を持つ人もいることは良く分かる。しかしそれでも「自分も嫌な思いをしたのだから、お前たちも同様の思いを経験しろ」的な反論は適切ではない。確かに昔は理不尽なことでも耐えるのが当たり前だったかもしれない。しかしそれは今も昔も「理不尽なこと」には変わりなく、現在は理不尽なことに耐える必要はない、という感覚が当たり前になりつつある。歴史的な事象かどうかは分からないが、セクハラ・パワハラ行為に対する評価は、以前の「嫌でも我慢するべきこと」という認識から確実に変わっている。勿論過剰なセクハラ・パワハラ認定に対する反論は必要だが、反論するなら、どう適切ではないのか、を指摘するべきであって、「以前は当たり前だった」なんて主張には正当性のかけらすらない。
これまで当然だったこと、見過ごされていたことが、後になって重大なことだったとか、当然だったのはおかしかったと見直されることはしばしばある。例えば、戦前の日本では国の為に滅私奉公・命を捧げるなんてのはごく当然とされていたようだし、欧米社会で非白人を差別する行為も当然のこととして行われていた。しかしそのようなことを「当時は当たり前だった」なんて理由で現在正当化できる筈もない。逆に言えば、現在当たり前のことも将来的には当たり前でなくなるかもしれない。また、大したことのない事案だと評価されていることが、今後大きな分岐点だったと再評価されるかもしれない。
多くの人は日常の中で経験することを、意識的か無意識的かは別として過小評価する側面を持っている。また逆に、自分が当事者として経験していないことを他人事として過小評価する側面も持っている。こう併記すると矛盾しているように思えるかもしれないが、無関心がその要因という点では共通していると言えそうだ。日常の中での経験は慣れによって関心が薄れ、当事者として経験しないことも関心を持てない場合が少なくない。気象庁が警告を発しており、既に避難指示まで出ていたのに、議員宿舎で酒盛りをしていた政府首脳らは西日本への関心が薄かったのだろうし、選挙で投票率が上がらないのも、政治に対する無関心が大きな要因だと思う。
無関心は正常な感覚を狂わせる。全てのことに満遍なく関心を寄せるのは簡単ではないし、そんな労力を割ける人は決して多くない。しかし、関心を持つべきことに無関心でいると、当たり前でなくなっていることを当たり前と認識し続けてしまったり、重大なことを見過ごしたりする恐れがある。ということを常に頭の片隅に置いておきたい。