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フジロック・情報公開・メディアの姿勢


 7月最後の週末と言えば、個人的にはフジロックフェスティバルだ。以前のように毎年行くことは出来なくなったが、行けないストレスを紛らわそうとしてなのか、単に毎年恒例の習慣だからなのか、行けない年でもラインアップを検索してしまうし、行かないのに何故かソワソワしてしまう。
 詳しくない人の為に説明しておくと、開催地はもう10年以上前から苗場だし、かなり前からロック以外のジャンルのアーティストも多数出演しているので、フジでもロック(だけ)でもなく、もう単にフェスティバル、言い換えれば祭り、夏祭りだ。毎年前夜祭で盆踊りを行うのも恒例になっている。
 自分はロックよりも更にオタク趣味な音楽・テクノが好きなので、石野卓球さんが主催していたWIREも自分にとっての夏の風物詩だったが、2013年以降開催されていない(厳密には規模をやや縮小した後継イベント・WIRED CLASHが開催されているが、夏のイベントという色は薄まっている)。そんなこともあり、フジロックは、誰にとっても日本の新たな夏祭りと認識されるくらいになるまで、これからも歴史を重ねて欲しい。


 今年のフジロックの2日目に、ロサンゼルス出身のラッパー・ケンドリック ラマ―さんが出演するそうだ。彼の活動や人柄について自分はそんなに詳しくないし、実際に現地でどのように評価されているのかもよく知らないが、彼はロス郊外の比較的貧しい地域の出身で、格差問題・人種差別などに関する体験が反映された曲もある。
 そんな彼の来日プロモーションとして、7/13に東京メトロ国会議事堂前駅・霞ケ関駅で掲示されたポスター広告 が一部で話題になっている。何故ならそれが、行政機関が情報開示請求によって公開する、所謂「のり弁」と揶揄される黒塗りだらけの公文書を皮肉った表現だったからだ。ケンドリック ラマ―さんが有名なアーティストだとしても、日本では音楽好きにしか認知されていないレベルだからか、テレビや大新聞では殆どこの件は取り上げられていない。自分の知る限りではこの件をそれらのメディアが扱っていたのを見た記憶はない。一方で、ハフポストなどネット系メディアではそれなりに取り上げられている。
 ハフポストの記事「「本日◼︎◼︎学園に伝達する事項ペーパー」国会議事堂前駅に黒塗り文書の広告。その狙いは?」によると、この広告はケンドリック ラマ―さん自身が企画したものではなく、プロモーターかレコード会社かに依頼を受けたのであろう広告会社が企画したようだ。個人的には、ケンドリック ラマーさんの名でこのような広告を展開するのではなく、日本のアーティスト(音楽に限らず)か、芸人・コメディアン・落語家名義で企画されるべき広告だったと感じた。日本では何故か芸能関係者は政治的な話題と距離を置きがちだし、明確に政権批判をすると「おかしな奴」扱いされがちな傾向が確実にある。日本人の多くの人が持っている「空気を読んで波風立てないのが、大人の振舞い」という認識は、確かに協調性に優れ、必要性の薄い衝突を避けるという良い側面もある。しかし、右に倣え、長い者に巻かれろ、どんな理由だろうが和を乱す者は叩かれる、言い換えれば同調圧力が強い、少数派を少数派というだけで蔑みがち などの悪い側面も確実にある。

 自分は毎日このブログに投稿している。ブログ以外にもフェイスブックやツイッターにも、気になった記事を引用してコメントを投稿している。フェイスブックやツイッターの投稿は、このブログの投稿を書く際のネタのストック、若しくはその日の主題の引き合いにする為のブックマークのような意味もある。
 結構前の記事を思い出して当時のコメントからリンクを辿ると、当該記事が既に削除されていることがしばしばある。NHKなどはその傾向が顕著で、割と最近の記事でも見られなくなっていることが少なくない。NHKよりはそんな場合は少ないかもしれないが、新聞・他の報道機関の記事でも、見られなくなっていることは決して珍しいとは言えない。記事が一定期間で非公開・または削除されるのにはいくつかの理由が考えられる。例えば個人情報が含まれた記事で、それが必要以上に拡散されることを避ける為という場合もあるだろうし、新聞社などは過去の記事の閲覧を収入源にしている場合もあるだろう。
 ただ個人的には、メディアが政府や行政機関が提示する黒塗り文書を「のり弁」と揶揄するのなら、各社が掲載した記事も削除せずに誰でもいつでも確認できるようにアーカイブとして残すべきではないのか?と感じる。新聞社などが過去記事の閲覧を収入源とし、対価を払えば読める状態になるというのなら、それはそれで仕方ないような気もする。しかしNHKは非営利団体だし、全ての視聴者から視聴料を聴取して運営しているのだから、誰でもいつでも、百歩譲っても視聴契約者なら誰でも記事を確認できるように努めるべきで、記事を削除する必要はないのではないだろうか。

 要するに、自分が見たかった過去の記事が削除されているのを目の当たりにすると、行政が胸を張って提示する「のり弁」と五十歩百歩だなと感じてしまう、ということだ。

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