「五体不満足」の著者で、障害者の立場で積極的に主張し、しばしば自分のことを自虐的に「エロダルマ」と称したりすることで知られる乙武 洋匡さんが、昨夜「愛国心」についての持論をツイートしていた。このツイートは、7/29に放送されたAbemaTV・千原ジュニアのキング・オブ・ディベートでの議論を前提としたツイートだ。7/28の投稿でも、別の回ではあるがこの番組を取り上げ、そちらは番組の内容を確認した上で投稿を書いたが、この投稿は番組の当該回を見ずに書いている。だからこれから書くことは、番組内で論じられたことを何を今更言っているのか、のような部分もあるかもしれないことを前提にして欲しい。
乙武さんのツイートは「愛国心」とは一体どのようなものか、または日本と他国のそれにはどのような差があるのか、などが主なテーマになっている。日頃「愛国心とは」ということをあまり意識せずに用いている人には是非、乙武さんのツイートを読んで、自分なりの受け止めをして欲しいし、「愛国心」に関して一家言ある人も、賛同するか否かは別として見識を広める為に是非一読して欲しい。これから全てのツイートを紹介するが、「こんなブログ読みたくない」という人は 乙武さんのツイッター で確認することが出来る。
乙武さんの主張は全部で7つのツイートをスレッド化して示されている。まずは、
1.昨日のAbemaTV『千原ジュニアのキング・オブ・ディベート』では様々なテーマについて議論したが、その一つが「愛国心」だった。外国人論客の方が「日本人は愛国心が薄い」と指摘されていたのだが、私は「その通りかもしれない」と認めた上で、「仕方がない側面もある」と日本の歴史に触れた。— 乙武 洋匡 (@h_ototake) 2018年7月30日
という導入から始まる。次のツイートでは、日本における「愛国心」の認識、特に戦後から現在に至る風潮について、
2.日本では戦前「忠君愛国」をモットーに愛国教育を行い、それが国民を戦場へと駆り立てる結果となった。その反省から、戦後は愛国教育を行うことに踏み込めずにいた。さらに、日本人が愛国心を抱こうとすると明らかな警戒を示す近隣国の存在もある。そんな中で愛国心を育むのは、そう容易ではない。— 乙武 洋匡 (@h_ototake) 2018年7月30日
と解説、というか彼の持つ歴史観を語っている。これについて自分も概ね異論はない。祖父祖母やそれ以外の自分の身近にいた戦争経験者らも、ほぼ同じような話をしていた。勿論彼らの中には当時の愛国教育について「いい面もあった」と言っていた人もいた。確かに協調性を育むなど、ポジティブな側面もあったのは事実だろうが、彼ら、特に戦闘に参加していた者が、自分のかかわった戦争という行為について全否定することは、自己否定につながることにでもあるだろうから、「いい面もあった」と思わざるを得ない立場だったという側面もあったかもしれないと、今にして感じている。
次に乙武さんは国旗に関しての見解を、
3.海外では街中に国旗が飾られているし、国旗に誇りを抱いているが、日本で日の丸を掲げていれば、おそらく「右翼かよ」などと眉をひそめられてしまうだろう。じつは、「ドイツでも同様の雰囲気を感じることがある」とドイツ出身の友人から聞いたことがある。敗戦国という共通点が、そこにはある。— 乙武 洋匡 (@h_ototake) 2018年7月30日
と述べている。これについてはいろいろ言いたい事がある。一部に、愛国心=国旗・国歌の尊重、かのように考える風潮がある。これは乙武さんも言うように日本に限った話ではなく、というか寧ろ日本やドイツ以外でこの風潮が高いと言えるかもしれない。読み進めれば、乙武さんはそんなことは言っていないという事が分かるが、この部分だけを読むと、乙武さんも愛国心=国旗・国歌の尊重と考えているのかも、と思えてしまう。
国旗や国歌を愛し誇ることを否定するつもりは一切ない。しかし、日本の場合、国歌「君が代」に関して、特に「君」という表現について様々な解釈が可能で、また様々な議論がある。国として、思想信条の自由を国民の権利として憲法に規定しているのだから、国旗や国歌をどう解釈するかもその範疇に入ると自分は思う。また、国旗や国歌は国の象徴であることは間違いないが、あくまで象徴であって国そのものではない。例えば国旗を燃やしたり国歌の演奏を妨害するような行為は、それらを誇りに思っている人にとっては屈辱的に感じられるかもしれない。しかし、国旗掲揚を拒否したり国歌斉唱を拒否する行為まで屈辱的だとか、不敬だとか批判するのは、他人に国旗国歌の崇拝を強制することにもなりかねず、思想信条の自由を侵す行為にあたる場合もあると思う。
君が代の斉唱を拒否した教員の再雇用に関する裁判の判決が7/19に示され、最高裁が再雇用を拒んだ都側の主張を認めた(朝日新聞の記事)が、個人的には強い違和感を覚えた。
乙武さんはこの後に自分が前段で懸念したことと似たような主張、
4.敗戦から70年以上が経ったいまでも愛国心を持てない国であるとすれば、やはりそのこと自体は寂しく感じる。昨年一年間、海外を放浪したことで、よりそうした思いが強まったのかもしれない。だからと言って戦前のような愛国教育は御免だし、植えつけられた愛国心などはむしろ反発を招きかねない。— 乙武 洋匡 (@h_ototake) 2018年7月30日
5.「この国を愛しなさい」という押し付けの教育でもなく、「我が国が最も優れているのだ」といった他国蔑視でもなく、この国に生まれてよかったなと掛け値なしに思える、この国なりの「愛国心2.0」のようなものについて考えてみようと思うようになった。少なくとも愛国心=戦争ではないと思うから。— 乙武 洋匡 (@h_ototake) 2018年7月30日
6.ただ、いまの日本社会が抱える課題を指摘しただけで、“反日”認定されてしまう風潮には疑問を感じている。むしろ、この社会をより良くしていこうとの気持ちがあるからこその指摘ではないかと思うのだ。改善すべき点に目をつぶり、盲目的に「日本万歳」とやることが愛国心だとは、私は思わない。— 乙武 洋匡 (@h_ototake) 2018年7月30日
というツイートを重ねている。自分は、乙武さんの言う「この国を愛しなさい」という押し付けの教育 や、盲目的に「日本万歳」とやること の象徴的な行為が、国旗・国歌崇拝の強制 ではないかと感じている。日の丸は好きじゃないが日本という国は好きな人はそれなりにいるだろうし、君が代の歌詞は好きじゃなくても自分の住む国を誇りに思っているも決して少なくないだろう。乙武さんも言っているように、国旗・国歌に違和感を示しただけで”反日”認定するような人達が、少なからず日本社会に存在している。また、その手の人達の中には、日本に何十年も住んでいても、日本国籍をもっていても、他国にルーツを持つ人の子孫というだけで非日本人扱いしたりする、偏見・差別を厭わない者もいたりする。しかも恐ろしいことに、その手の人が政治家・地方議員・国会議員の中にもいたりする。そのような愛国感は、結局戦後の日本社会に存在する愛国心嫌悪を悪化させるだけではないだろうか。
こういう観点をまとめて乙武さんは、
7.最後に外国人論客の方がおっしゃっていた「愛国心3カ条」が興味深かったので、ここに記しておきますね。— 乙武 洋匡 (@h_ototake) 2018年7月30日
①国に誇りを持つこと。
②国の政治に関心を持つこと。
③国を良くする活動にコミットすること。
私は、愛国心=①だけに限定して考えてしまっていたので、この定義はなかなか面白いなと。
と締めくくっている。乙武さんは「愛国心=国に誇りを持つこと」だけに限定して考えてしまっていたと告白しているが、自分には、国に誇りを持っているからこそ、政治に関心を持ち、政府が間違った方向に向かおうとしてたら指摘・批判して正すべきだし、方法はそれぞれだろうが、国を良くする活動に関わるのは当然ではないだろうか。
どうも日本人のうちの少なくない人は今現在も、国=政府という認識を持っているような気がする。確かに、現在の政府は間接的にではあるが、国民が選挙で選んだ人で構成されており、国=国民ということと国=政府という認識は必ずしも対立するとは言えないかもしれない。ただ、これまでの歴史、たった100年かそこらだけの昭和以降の歴史だけを見ても、国民が選挙で選んだ政府が、結果的に過ちを犯すということはしばしば起きている。これが理解できていれば、愛国心について考える際に国=国民と認識するべきか、国=政府という認識を持つべきかは単純明快だ。政府は絶対に正しい判断をすると認識することは明らかに間違いだし、国を愛する、愛国心を持つなら、自国の政府が誤った判断をしていれば正さなくてはならない筈だ。
何が言いたいのかと言えば、愛国心を持つことは重要なことかもしれないが、愛国心=愛政府心と勘違いすることは危険であるということだ。中には愛国心=愛・特定の政治家 心になってしまっている人もいる。国を愛していればこそ、政府が間違ったことを進めようとしていれば、国の為にそれを指摘し批判しなければならない。例えば、政府や与党の政治家が人権を無視するような態度を示していたら、同じ国に住む者が蔑ろにされることを見過ごさないことこそ、愛国心の表明に他ならないのではないだろうか。愛国心を発揮しなければ、次にターゲットにされるのは自分かもしれないと考えるべきだ。