昨日・7/6の朝に、オウム真理教関連の死刑囚7人への刑執行が行われた。自分は日中の放送を見ていないが、ネットで軽く調べる限り日中のテレビ放送は、前日から被害が出始めていた豪雨災害と、オウム真理教・死刑執行関連が殆どだったようだ。朝日新聞の記事「死刑囚写真に次々「執行」シール TV演出に疑問の声も」は、日本テレビが死刑囚の顔写真一覧フリップを用意し、刑執行が行われる度に死刑囚の写真に「執行」シールを貼る手法で放送を行ったことについて、まるで死刑のショー化だと批判が上がっていることを取り上げた。ツイッターなどでは、他のテレビ局でも刑が執行されると速報で「○○に刑執行」というテロップをいちいち流すなどしていたことを、同様に批判する声が上がっている。
自分はリアルタイムで放送を見ていないので、実際に目の当たりにした際にどう見えるかを語ることは出来ないが、確かに悪趣味な演出・報道方法のようにも思う。しかし、視点を変えれば、オウム真理教関連の刑執行は、相応に注目を集めていたのも事実で、速報が流されることがそれほど不自然だったとまでは思えない。ただ、伝える手法によって報道がどのような印象を与えるのかを見つめなおすいい機会にはなったのだろう。
自分が懸念を抱いたのは報道云々ではなく、7人もの刑執行が一斉に行われたことだ。7人もの死刑が一斉に執行されることも戦後初のようだが、自分が懸念を感じるのはその点ではない。オウム真理教の後継団体は未だに数百人規模で活動を続けている。しかも、オウム真理教の開祖である松本死刑囚を崇拝するような行為が今も続いている、とも報じられている。にもかかわらず、なぜ松本死刑囚とその側近とされた元オウム幹部ら7人に対して一斉に刑を執行してしまったのだろうか。
自分はオウム真理教がどのような宗教なのか詳しくしらないが、所謂カルトというイメージを抱いている。カルトと呼ばれるような宗教は、大概節操なく古今東西の宗教から都合よく色々な話を引用しているような印象を持っている。これが絶対的に正しいカルト宗教の認識とは言えないし、オウム真理教やその後継団体にそのような側面があるのかも定かではない。しかし、もし自分が後継団体の幹部だったら、今回の刑執行を松本死刑囚を処刑されたイエス キリストに、共に刑を執行された元幹部らを殉教者になぞらえるような形式で、組織の運営に利用するだろう。
死刑の執行が一斉ではなくとも、松本死刑囚や元幹部らに対して刑が執行されるだけでもそのような解釈はできるかもしれないが、刑が一斉に執行されたことは、その象徴性を余計に高める効果を生んでしまうと自分は考える。法務省・法務大臣、もしくはその後ろにいる首相や政府はそのようなことを考慮した上で、7人への一斉執行を行うという判断を下したのだろうか。自分の印象としては、刑執行の責任者である法務大臣が、わざわざ後継団体の運営をアシストしているようにも思えた。
この刑執行の影響が松本死刑囚の三女にも及んでいる事を、BuzzFeed Japanの記事「麻原彰晃死刑囚、三女のTwitterに嫌がらせ相次ぐ 「テロリストの血が流れてる時点で死刑囚」」などが伝えている。記事によれば、彼女に対して
- お前の父ちゃん死んだ〜
- お父さん死刑ですね!あれほど大きな問題(地下鉄サリン事件)を起こしてやっとかって感じです
- お前もついでに死刑にしてもらえば?極悪テロリストの血が流れてる時点で死刑囚やろwwwwwwwwwwww
- ざまあみろ。てめえもさっさと後追いでくたばれ
- ツイッターなんかやってたんだね サリンで苦しんる人はまだ居ますよ?親族なら恥ずかしくてツイッターなんかやってられない
などのツイートが送りつけられているそうだ。全く小学生以下レベルの罵倒・誹謗中傷でしかない。これを万が一成人が書き込んでいるようであれば、相当残念だ。BBCが放送した伊藤詩織さんの件を取り上げたドキュメンタリー番組への反応や、財務事務次官セクハラ問題の被害女性への反応、繰り返されるヘイトスピーチ、当然この記事の件なども含めて、一部の人間の愚かな主張によって、日本全体の民度が低いと思われかねないことに強い憤りを感じる。
このような旨のコメントを記事に書き込んだところ、彼女が松本死刑囚やオウム真理教について、一部肯定的ともとれる主張をしていることなどを理由に、遺族の感情を考えろ、という旨のリプライが返ってきた。この記事が彼女に罵倒・誹謗中傷が寄せられているという旨の記事であること、自分が書いたコメントは、犯罪者の子どもには何の責任もないのに罵倒や誹謗中傷は許されないという旨であることを勘案すれば、リプライを付けた人物は、彼女の主張がおかしいから罵倒や誹謗中傷を受けるのも当然だとでも言いたいのだろう。
BuzzFeed Japanの記事は彼女が
とツイートしていることも紹介している。この主張を否定するつもりはないが、自分も「でも、(オウムにも)いいところもあった」という部分に賛同する気にはならない。確かにオウム真理教の中にも普通の日常はあっただろうし、一応宗教なのだし、また彼女は開祖の三女だし、いいところと言うか、いいところに見える部分は確実にあっただろうことを理解はする。しかしそれを超える悪いところがあったこと、その被害を受けた人が何千人もいることを考えたら、流石に肯定的に受け止めることは出来ない。私はオウムを肯定するつもりはまったくない。ただ、黒は黒。赤赤は赤と言いたい。物事は100ゼロではなく、グラデーションなのではないのか。オウムに悪いところはたくさんあった。私もオウムへは入らない。でも、いいところもあった。それだけ。分からないのかなぁ。この感覚。— 松本麗華 (@asaharasanjo) 2018年7月3日
しかし、彼女がそのような教団の悪事に主体的に関わっていたという事実はない。そして、彼女がどのような受け止め方をしようがそれは思想信条の自由の範疇だし、それを表現することも、日本人の誰にでも認められている権利だ。もし彼女の主張に強く反発するのなら、適切に反論・批判を行うべきで、人格否定・罵倒・誹謗中傷が許されるはずなどない。恐らく自分のコメントにリプライしてきた人物は、適切な反論・批判と人格否定のような罵倒・誹謗中傷の区別がつかない人物なのだろう。
このような感覚が蔓延している理由は、副首相が明確な根拠もなく、セクハラ被害者を貶すような発言を堂々と出来る人物であることにもあるだろう。子は親の鏡という表現がある。子どもは親の影響を受けて真似をする映し鏡であるというような意味合いだ。国のナンバー2がそのような発言を繰り返せば、一部の国民はそれを問題ない行為と受け止めるだろう。
しかし「鶏が先か卵が先か」ということでもある。副首相を始めとした愚かな発言を堂々としてしまう国会議員・政治家を、選んでいるのは私たち国民だ。言い換えれば、子は親の鏡ではなく、親は子の鏡、国会議員は国民の鏡という側面もある。そのように考えると、日本全体の民度というのはその程度ということでもだろう。自分は絶対そんなことを容認するつもりはないし、まともで、他の国の人達が見ても恥ずかしくない政治家を選びたいし、まともな政治家が選ばれるようなまともな社会になるように、ささやかな努力を続ける。