「辺野古への基地移設反対」の姿勢を示して2014年に沖縄県知事に当選した、翁長 雄志氏が8/8にすい臓がんの為死去した(時事通信の記事)。今年の6/23、沖縄戦の戦没者追悼式でも政府の方針に従来通り異論を唱えており、亡くなる直前まで埋め立て承認の撤回手続きを行う方針を示していたし、道半ばでさぞ無念なことだったろう。ネット上では「反日が死んだw」的な心無い主張を見かけなかったわけではないが、SNSプラットフォームが適切に対応したのか、実際にそのような愚か者が少なかったのかは定かではないが、そのような主張が殆ど目につかなかったことだけは幸いだった。自分は流石に人の死を馬鹿にしたり、喜んだりするような人が少なかったと信じたい。
昨日、ツイッターのトレンドを見ていると、「山口那津男代表」というワードが上位にあった。彼が翁長氏の死去を受けて発したコメントに批判が集まっていた。そのコメントは産経新聞が”全文”として掲載している。
批判されているのは、コメントの最後の一文「翁長知事も異は唱えられないと思っています。」という文言だ。この表現への批判が適切か否かを考えるには、翁長氏が”何に”「異論を唱えられない」と山口氏が言っているのかを把握する必要がある。なので、まず山口氏のコメントの全文を読んで貰いたい。
「翁長知事も異は唱えられないと思っています。」の適不適以前に、まずは山口氏のコメント全体に整合性があると思うか否かについて考える。自分は整合性があるとは全然思えない。山口氏のコメントは翁長氏の死去を悼む為に示されたものであり、政治的な信条・方針は違えど、信念を貫居く翁長氏の姿勢は称えるという方向性であることが、特にその前半部分からうかがえる。その部分はとても賛同出来る内容である。しかし、適切とは思えないのは後半部分である。
(米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設について)
移設反対運動のリーダーを失い反対運動を支えてきた人たちの運動が今後どうなるのかにもよります。政府としては長い間、沖縄県民の声を丁寧にくみ取りながら、普天間基地の危険を取り除く選択肢は辺野古移設であるとの合意を作り、進めてきたつもりです。ほかに現実的な選択肢がみられない以上、これからも丁寧に県民の理解を求めながら危険を取り除くための努力をしていかなければならないと思います。総じて、沖縄県の皆さまの基地負担を軽くしていくことが、政府の責任であると思っています。翁長知事も異は唱えられないと思っています。
と山口氏は述べている。自分が強く違和感を感じるのは一つ目の太字部分だ。2014年に「辺野古埋め立て・基地移設反対」を掲げた翁長氏は、辺野古埋め立てを承認した前知事で、自民・公明が推薦した仲井眞氏に10万票近い差をつけて当選した。この選挙の有権者総数は約110万・投票率は約65%で、いかに大差だったかが分かる。これだけを考えても「辺野古移設の合意を作り進めてきた」なんてよくも言えたものだ、としか言えない。ただ「進めてきた”つもり”」だそうだから、山口氏や政府はうまくやった気になっているだけ、と自ら認めているようなものだ。その後に続く「他に現実的な選択肢がみられない」も、単に本土や政府、そしてアメリカの都合を沖縄に押し付ける為の決めつけでしかないように思う。これで「合意を作り進めてきた」なんて、本当に”つもり”になっているだけだとしか言えない。そんな観点から、自分は山口氏のこのコメントに全く賛同も共感も出来ない。
なので、このコメントに批判が集まることは何も不思議には思わない。しかし批判の矛先が「翁長知事も異は唱えられないと思っています。」に集中するのは如何なものだろうか。どうも批判している人達の多くは「翁長氏も”辺野古移設に”異論を唱えられないと思う」と山口氏が言っているように勘違いしているように思う。中には有識者と呼ばれるような人の中にもそのように思えるツイートをしている人がいる。山口氏がこのコメントの中で、翁長氏も異論を唱えないだろうと言っているのは、辺野古への移設ではなく「沖縄県の皆さまの基地負担を軽くしていくことが、政府の責任である」ことではないだろうか。沖縄の基地負担を政府の責任で軽くしていくということについては、山口氏の言うように、翁長氏も流石に異論はないだろう。
しかし「翁長知事も異は唱えられないと思っています。」という表現に、批判するべきとことが何もない訳でもない。個人的には産経新聞がこの記事に「 公明、山口那津男代表、辺野古移設「翁長知事も異を唱えられないと思う」」という見出しを付けていることには強い違和感を覚える。どのような意図なのかは分からないが、「山口氏が、翁長氏は辺野古移設に異論を唱えられないと思う」と言っているようにミスリードしようとしているとしか思えないからだ。「辺野古移設「翁長知事も異を唱えられないと思う」」という表現は、明らかに山口氏のコメント内容と意味が異なる表現だ。もしかしたら見出しを付けた記者の読解力が強烈に足りないだけかもしれないが、読解力が足りないにせよ、恣意的にこのような見出しを付けたにせよ、校正も行われているだろうにこのような内容と見出しの趣旨が乖離する記事が世に出るということは、産経新聞自体の程度の低さが窺える。ただ、その見出しにつられ、内容を吟味せずに山口氏の批判を行うことも、結果的には産経新聞と五十歩百歩ということになりかねないので、盛り上がっている批判が適切ではない事にも変わりはない。
山口氏のコメントを批判するツイートの中には
「翁長知事も異は唱えられないと思っています。」という表現をコメントの最後に持ってくる山口氏の無頓着さに呆れる
という旨の主張もある。 自分は、この手の主張は、山口氏が「翁長知事も異は唱えられないと思っています。」と言っているのは、「沖縄県の皆さまの基地負担を軽くしていくことが、政府の責任である」ことについてであることは理解しているが、産経新聞の見出し同様、山口氏は自身や政府・自公与党の積極的支持者に対して、あたかも翁長氏も”辺野古移設に”異論を唱えられない、ということが適切な見解であるかのような印象を与える為、要するに勘違いさせる為に、敢えてこの文言をコメントの最後に持ってきた、言い換えればミスリードを狙っている。しかも翁長氏の死を踏み台にして。と批判しているのかもしれないと感じた。
しかし、実際にそのような趣旨の批判をしているのか、前段で指摘したような誤解に基づいた批判なのかは定かでない。その理由はツイッターの文字数制限の所為でもあるだろう。メディアの記事を引用してツイートしようとすると、文字数制限はかなり厳しく、前述のような趣旨の批判(誤解に基づかない方の批判)であることを明確にするには確実に足りない。しかし、1ツイートの文字数制限があるからと言っても、言いたい事が表現できないようでは批判する意義は著しく低くなる。文字数制限のないブログなどで明確に指摘してリンクをつけることも可能だし、ツイートをスレッド化して補足することも可能なのにそれをしなければ、山口氏のコメントを吟味せずに安易に批判していると思われても仕方ない。
話をまとめると、
- 山口氏のコメントは批判に値する
- しかし山口氏は、明確に「翁長氏も”辺野古移設に”異論を唱えられない」とは言っていない
- 「翁長知事も異は唱えられないと思っています。」について批判するなら、ミスリードを行った産経新聞を批判するのが筋
- 「翁長知事も異は唱えられないと思っています。」について山口氏を批判するなら、批判の趣旨を明確にするべき
ということだ。これが絶対的な事実とまでは言わないが、自分はそう考える。批判を行うのなら、何が不適切なのかをしっかりと認識しなければならない。他人のツイートや記事の見出しに載せられると事実を見誤ることもある。批判する際にポイントを間違えば、適切な批判の邪魔をしてしまうこともある。何より批判を行う際にはその言葉に責任を持たなければならない。責任を持てないなら批判をするべきでない。
多くの人に、このことについて、この件を機に今一度再確認して欲しい。