スキップしてメイン コンテンツに移動
 

ボランティア ≠ 完全無償


 山口県・周防大島で、8/12から行方不明になっていた2歳の男の子に注目が集まっていたが、ボランティアで捜索に加わっていた大分県の70代の男性・尾畠 春夫さんが発見し、今度は彼が注目を浴びることになった。共同通信などが男の子発見の速報で、まるで彼が自作自演で男の子誘拐>発見を演出したかのようにも受け取れる報道をしたことについて、8/15の投稿で指摘した。その後は徐々に尾畠さんのこれまでのボランティア活動が、裏付けと共に各メディアで報じられ、共同通信などが醸し出してしまった彼への疑念は急速に萎んでいったように思う。それと共に彼を称賛する声が高まっていったように自分は感じていた。
 8/16、テレビ朝日は「謝礼を断固拒否!尾畠さん流儀←ネットで称賛の嵐」という見出しの記事を掲載した。前述のような、尾畠さんへの称賛の声の高まりを取り上げた記事だが、個人的にはその内容にあまり賛同出来なかった。

 この記事は、尾畠さんが発見された男の子の家族から食事や風呂を勧められたが、断固として断った事にネット上で称賛が高まっていることを強く示唆している。リンク先の記事に記述はないが、そこに掲載されている報道映像では、尾畠さんの
 対価、物品、飲食、これは絶対、頂かない。敷居をまたいで家の中に入ることもボランティアとして失格だと思っている。私はそれで良いと思うんですよ。人がどうしようと関係ない。尾畠春夫は自分なりのやり方がある。それで通しただけ
 というコメントを取り上げ、それに対して「久々に素晴らしい大人を見た」「ここで断れるというのはボランティア魂を感じ、素晴らしいこと」「こんなシニアになりたい」という反応をネット上のコメントとして紹介している。

 尾畠さんの姿勢に何もおかしいところはない。ただ一つだけ違和感を感じるのは「少しでも対価を貰うことはボランティアとして失格だと思う」と言っている点だ。彼が「尾畠春夫は自分なりのやり方」・自分の信念としてこれを言っていることは理解するが、彼の姿勢をあまりにも過剰に称讃すると、世の中に広くボランティア活動=一切対価を貰ってはいけない、全て厳密に自費で活動賄うべきという誤解を広げかねないと懸念する。というか、既に一部に存在するその手の認識を更に固定化しかねないと感じる。
 この件で男の子の家族から食事を提供してもらったり、風呂を借りたりすることはボランティア活動の対価なのだろうか? 勿論対価と受け止めることが絶対的に間違いとまでは言わない。しかし自分は、男の子の家族が示そうとしている感謝の意を素直に受けてもいいように思う。それだってボランティア活動から派生するコミュニケーションの一つであって、流石に過剰に感謝や礼を求めるようなことがあってはならないが、ある意味では礼を受けることすらボランティア活動の一部なのではないか?と思う。
 再確認するが、尾畠さんの姿勢を否定するつもりは全くない。ただ、ボランティア活動する人全員に尾畠さんのような姿勢を求めたら、多くの人がボランティア活動に気軽に参加することを阻害しかねないのではないか?と思う。

 少し前の話だが、アンパンマンなどの作者・やなせ たかしさんが、自治体や企業の依頼を受けてデザインしたおよそ200のキャラクターについて、そのほとんどを無償で請け負っていたことを明かしたことについて、漫画家の吉田 戦車さんが苦言を呈するという事案があった(ライブドアニュースの記事)。
 厳密に言えば、吉田さんが苦言を呈しているのは、無償で引き受けたやなせさんではなく、そのやなせさんの姿勢を自治体などが基準にしてしまっている状況についてだ。ただ、やなせさんが無償で引き受けたことで、自治体などに無償が基本という認識が広がっている点についても吉田さんは指摘している。要するに、業界の第一人者的なやなせさんがキャラデザインを無償で引き受けることで、それが当たり前化し、やなせさんほど潤沢な収入のない駆け出しの漫画家やデザイナーなどにも、無償での対応が暗に要求されかねないという話だ。

 尾畠さんの姿勢もやなせさんの姿勢も、彼ら個人の行為として見れば大きな称讃に値する行為だと自分も思う。しかし、他国はどうか分からないが少なくともこの国では、例えば、定時の規定があっても、サービス残業を自ら買って出る者がいれば、そのような者の「他より強い仕事への意欲」が称讃され、いつの間にか基準となって全ての者へ暗にサービス残業が強制されてしまうような風潮・傾向が確実にある。素晴らしいことを素晴らしいと褒め称えるだけなら何の問題もないが、イレギュラーな筈の素晴らしさが、基準化して全てに求め始められるのは問題だ。しかしそういうことになり易いのが私たちの社会の性質だ。
 結論として、尾畠さんのボランティア精神は確かに大きな称讃に値するが、称讃するのなら、彼が男の子の家族が申し出た礼を断ったこと以外の点で称賛するべきだ。ネットで個人がその点を称賛することと、テレビという影響力の強いメディアが取り上げることでは確実にその影響は異なる。東京オリンピックのボランティアに関する議論もまだまだ続いる状況も加味した上で、テレビ朝日にはそのようなことまで考慮して、別の点で尾畠さんを称賛する報道をして欲しかった。この件を取り上げるにしても、一言でいいから「礼を受けるのは決して悪いことではない」注釈しておいて欲しかった。

このブログの人気の投稿

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになる

 攻殻機動隊、特に押井 守監督の映画2本が好きで、これまでにも何度かこのブログでは台詞などを引用したり紹介したりしている( 攻殻機動隊 - 独見と偏談 )。今日触れるのはトップ画像の通り、「 戦闘単位としてどんなに優秀でも同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになるわ。組織も人も特殊化の果てにあるものは緩やかな死 」という台詞だ。

フランス人権宣言から230年、未だに続く搾取

 これは「 Karikatur Das Verhältnis Arbeiter Unternehmer 」、1896年ドイツの、 資本家が労働者を搾取する様子を描いた風刺画 である。労働者から搾り取った金を貯める容器には、Sammel becken des Kapitalismus / 資本主義の収集用盆 と書かれている。1700年代後半に英国で産業革命が起こり、それ以降労働者は低賃金/長時間労働を強いられることになる。1890年代は8時間労働制を求める動きが欧米で活発だった頃だ。因みに日本で初めて8時間労働制が導入されたのは1919年のことである( 八時間労働制 - Wikipedia )。

馬鹿に鋏は持たせるな

 日本語には「馬鹿と鋏は使いよう」という慣用表現がある。 その意味は、  切れない鋏でも、使い方によっては切れるように、愚かな者でも、仕事の与え方によっては役に立つ( コトバンク/大辞林 ) で、言い換えれば、能力のある人は、一見利用価値がないと切り捨てた方が良さそうなものや人でも上手く使いこなす、のようなニュアンスだ。「馬鹿と鋏は使いよう」ほど流通している表現ではないが、似たような慣用表現に「 馬鹿に鋏は持たせるな 」がある。これは「気違いに刃物」( コトバンク/大辞林 :非常に危険なことのたとえ)と同義なのだが、昨今「気違い」は差別表現に当たると指摘されることが多く、それを避ける為に「馬鹿と鋏は使いよう」をもじって使われ始めたのではないか?、と個人的に想像している。あくまで個人的な推測であって、その発祥等の詳細は分からない。