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富田林署逃走事件・弁護士の責任について


 大阪・富田林署で、弁護士との接見後、容疑者が面会室のアクリル板を壊して逃走するという事件が8/12に発生し、未だに容疑者の確保に至っていない。この件については富田林署は、夜間の接見の際に面会室の隣の部屋に署員を配置しておらず、また面会室のセンサーの電池を入れていなかったことが明らかになっている。また、当該弁護士も接見が終わった際に誰にも声をかけることなく署を後にしていたそうだ。個人的には、富田林署が必要な人員を配置していなかったこと、配置出来ない状況だったとしても、それを補う為の面会室のアクリル板・ブザーのメンテナンスを怠っていた事が、この事件の主な発生原因だと思う。しかしこの件が発生した責任について、当初から「なぜ弁護士は接見終了を署員に告げなかったのか」という指摘が飛び交っている。中にはこの件が発生した主たる要因はそこにあると言わんばかりの主張も少なくない。


 確かに、当該弁護士が接見終了を署員に告げてから署を後にすることが望ましかったことには違いない。しかし、警察の怠慢を棚上げし、することが望ましい・配慮があってもよかった、程度の弁護士の報告に対して、責任を過剰に追及するのは如何なものだろうか。
 例えば、「この事件の主たる原因は警察が必要な人員の配置を省略し、且つ面接室の設備の保守点検を怠っていたことの責任がとても大きい。だが、当該弁護士にもそれを補う配慮があってもよかったのではないか?」程度の指摘であれば、自分も理解出来る。しかし、主にネット上では前述のように、「弁護士が声掛けさえしていれば事件は起きなかった」と言わんばかりの主張が、特にツイッター上などで目立つ。
 自分はこの傾向にもツイッターの文字数制限の副作用があると考える。例えば、前者のように思っていたとしても、ツイッターのような半ば日常会話的な短文投稿システムの下では、「だが」以下の部分だけを強調して表現される場合も少なくないし、また適切な文脈で表現することを面倒くさがる傾向もある。要するに表現が「言葉足らず」になり易く、そして読む側も自分の興味のある部分のみを受け止める傾向がある、と自分は感じている。この件では、警察が組織的に間違うはずがないというバイアスとも相まって、弁護士の責任だけを追求するような主張が一部で高まっているのだろうと想像する。

 8/17に毎日新聞は驚く内容の記事を掲載した。「富田林署逃走 事前に計画か 接見終了、署員に声かけなく」には、
 容疑者が接見が終わったことを署員に伝えないよう、弁護士に依頼した疑いがあることが捜査関係者への取材で分かった。
という記述がある。接見には当然のこと、隣室にすら警察官がいなかった密室での接見内容を、捜査関係者はどこから聞いてきたのだろうか。要するに、容疑者か弁護士がこのように証言しない限り、捜査関係者がそのような話を得る手段はないのではないか。容疑者はまだ捕まっていないのだから、弁護士が証言しない限り発覚しようのない話ではないのか。記事の最後には「弁護士の事務所は「取材には一切答えられない」と話している」ともあるし、当該弁護士がそう証言したとは考えにくい。記事では「弁護士に依頼した疑い」としか表現されておらず、場合によっては捜査員が乏しい根拠でそう願っているだけ、要するに警察の責任を軽くしたいという願望の現れである恐れが多分に含まれている話だと感じる。
 容疑者が以前から「接見終了は自分で警察官に伝える」と弁護士に言っていた、という話もあるが、捜査関係者のコメントがこのようなことを根拠にしたものであるのなら、尚更のこと富田林署はこの容疑者の接見に注意を払う必要があったという事になるだろう。にもかかわらず、担当者の配置もブザーの点検も、アクリル板のメンテナンスも怠っていたのなら、署の怠慢としか言いようがない。


 またこの記事には、
 同署は弁護士が夜間に接見する際、面会室の隣室に署員を配置しておらず、面会室の出入りを感知するセンサーの電池も抜いていた。このため、普段は接見が終われば署員に声をかけるよう弁護士や容疑者に依頼していたが、事件当日は声かけがなかった。
という記述もある。この表現では「当日も署側は弁護士に終了の声掛けをするよう依頼していたが、弁護士は行わなかった」と言いたげに見える。もしかしたら当日も、接見終了の声かけ依頼が当該弁護士にあったかもしれない。しかし、夜間の警察署に行ったことがある人なら分かるだろうが、昼間に比べると人は明らかに少なく、電話やその他の対応で人が出払っており、窓口対応出来る人がおらず相当待たされることはザラにある。ここからは単に想像でしかないが、当該弁護士に次の予定があり、窓口に対応する者がおらず長く待たされていたとしたら、声かけせずに署を後にしていたとしても、それが不適切とは言えないのではないだろうか。もしそのような状態だとしたら、弁護士の声かけがあったとしても、面会室の容疑者にすぐに署員が対応することはなかっただろうから、その間に容疑者がアクリル板を壊して逃走するという事件は発生していたかもしれない。要するに、事件の主たる要因はアクリル板のメンテナンス不足ということになる。
 このようなことから、声かけ云々ということに大きな原因があるかのように論じることが、如何に滑稽かが分かる。


 この記事の内容は前述のように嘘とまでは言えないかもしれないが、しかし、このような記事が掲載されれば、前段で指摘したような「弁護士の責任を過剰に追求する声」に油を注ぐことにもなりかねない。毎日新聞は内容の取扱いについて、もっと留意するべきだったのではないかと思う。

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