夏休みの宿題・自由研究の中で唯一記憶に残っているのは、確か小学3年生の夏に、昆虫好きの叔父と一緒に作った標本作りだった。今は昆虫への興味は全然ないが、当時は小学生男子らしく、昆虫を取りにも言ったし、ザリガニを釣りに行ったり、カエルを捕まえに言ったりもしていた。余談だが、取ってきたオタマジャクシの卵を、当時祖父が庭に置いて蓮を育てていた大きめの水瓶に入れておいたら、その年から梅雨時期に毎晩のようにカエルがゲコゲコと鳴くようになり、家の隣の空き地に家が建つまで10年以上そんな状況が続いた。話を自由研究に戻すと、自分の記憶の限り、自由研究とは文字通り”やるやらない”だけは自由ではなかったが、内容・形式などを問われる事はなかった。
ハフポストが8/23に「長野市の小学校の自由研究が「自由」じゃない? Twitterで母「自由研究なんだから何でもいいじゃん..」という記事を掲載した。長野市の小学校に子どもを通わせる母親が、夏休みの宿題として課される自由研究について、提出の様式が事細かに限定され、専用の用紙に記述形式で纏めなければならない、という規定に感じた違和感をツイートして話題になっているという記事だ。
工作とか手芸とかだって立派な自由研究なのに何が何でも紙にまとめさせるってどうなんだろう。できることの幅を大きく制限してるとしか思えない。貼り合わせて吊り下げ部分をつけて提出する形式に作り上げるのも実際親が手伝わないと無理だしこの母親の主張には一理あると思う反面、たとえば、工作や手芸を自由研究として行うとしても、その過程や感想などを用紙に纏めて提出すればよいのではないか?とも思ってしまった。確かに全ての子どもが纏めることや文章表現が得意とは限らない。例えば、音楽が得意な子は曲を作ってそれを提出してもいいだろうし、絵を描くことが得意な子はその絵だけを提出してもOKな方が柔軟で、文章表現ありきの自由研究が絶対的に合理的とは思わない。
ただ、昨今子どもにYoutuberが人気なのだそうだが、彼らの多くは自分の興味を上手く動画に纏めて人に伝える事が出来る人達だ。自分の工作や手芸を伝える動画も多い。もちろん音楽作品でも、人気Youtuberになりたければ、どんな曲かどんな思いを込めたのかなど解説も必要になる。また、Youtuberに限らず、芸術家と呼ばれる人の多くは、勿論プレゼン無しに大成した人もいるだろうが、大概は自分の作品を売り込んだ結果認められた人達であって、自分の作品を多くの人に伝える能力は確実に将来的に役に立つはずだ。そんな観点で考えれば、自由研究の内容が工作や手芸であっても、その過程を指定の形式でまとめるという作業をすることには一定の意義があるだろう。Youtuberが自分の動画を作る前に絵コンテを書く作業に近いかもしれない。言い換えれば、プレゼン能力・自己表現の勉強になる側面があると思う。
しかし自分が気になったのは、ハフポストの取材を受けた長野市教委の担当者の見解だ。担当者はあくまで個人的な私見としつつ次のように述べたそうだ。
私が小学生だった30-40年前は模造紙でした。ここからは想像ですが、模造紙だと掲示の横幅がとられるし、ある程度統一した方が指導しやすいのでは要するに、決められた様式での提出を求める理由は、その方が教員が評価・審査しやすいからだという事だろう。決められた記述式の様式での自由研究提出は、教員側の都合であると言っているように聞こえる。確かに、特に昨今教員の負担が増えていることが、社会全体の慢性的な人手不足とも相まって、大きな問題になっている。そんな観点でこの見解を受け止めれば、それ程強く批判することも出来ないかもしれない。
しかし、自由研究にそれ程厳密な評価は必要なのだろうか。自分の小学校当時は、自由研究の評価は、学級会で自分たち(子供)がそれぞれ感想を言い合い、子供たちが主体的に行っていたような記憶がある。指導とは一体何を指導するのだろうか。事細かに決めた様式で提出させ、その様式を守っているか否かに主眼を置いた指導をする為の、様式設定ではないのかと疑ってしまう。自由研究の内容の評価のしやすさと様式の統一に深い関係性があるようには、自分の経験上思えない。
結局、私見であっても、教委の担当者がこのような見解であるということは、自分が前段で触れたような自己表現能力のような視点は、あまりないということなのだろう。結局のところ、日本の教育は型に嵌めたがる傾向にあり、型から外れると評価が下がるという、あまり良くない面がこの件に現れているように自分は感じた。