東京医科大が女子受験者を一律減点していた事が8/2に報じられ、大きな注目を浴びている。先月は国会議員がLGBT、子を持たない人への差別的な主張をして強い批判を浴びた、というか今も浴びているが、今度は性差別だ。国会議員が差別的な主張を堂々と行い、大学の試験では女性差別が行われる、どうも今自分が住んでいる国は、差別に寛容な国のようだ。日本はアジア随一の先進国だ、なんて話を、自画自賛のみならず、他の国の人そう評価して貰えることもしばしばある。確かに経済発展で言えばそれは当たっているかもしれない。しかし差別が公然とまかり通るようでは、決して先進国だなんて言えない。また、「日本人は親切だ」という評価もよく耳にする。しかし、このような差別が広がっていては親切も糞もない。単に外面が良いだけなのを「親切」と勘違いしているだけではないか?と感じてしまう。
BuzzFeed Japanは昨日・8/4、「東京医科大の女子一律減点問題 政治家の反応まとめ」という記事を掲載した。見出しの通り、掲載時点までに、この件について言及した政治家の反応をまとめている。与野党何人かの反応が取り上げられているが、全ての人が苦言・批判を呈するという傾向にある。個人的にとてもまともな反応だなと感じる。一部に世間一般とは異なる常識感を持っている人もいるようだが(ハフポスト「東京医科大の女子一律減点不正に、田母神俊雄氏「そういう考え方もあるのは当然」と擁護」)、政治家の多くはまともな感覚を持っているのかもしれない。この記事を読んでまず感じたのは、前段で書いた失望感を少し和らげてくれるような感覚だった。
しかし、東京医科大の件に違和感・苦言・批判を表明している政治家のうちの何人かは、杉田氏の差別発言に関しては沈黙している、もしくは黙認している者もいる。そのような事を勘案すると、その手の人達が東京医科大の件に批判を表明するのは、杉田氏を批判しなかったことで生じた「差別を容認する人」という疑惑を払拭する為に、そのマイナス分を取り戻そうとして、東京医科大の件に言及しているだけで、差別を嫌悪するという側面よりもそちらの側面の方が大きいのではないか?と疑ってしまう。杉田氏は国会議員で、彼女の責任を追及すれば、およそ2週間も沈黙していた所属政党・自民党自体を批判しなくてはならなくなる。しかし、東京医科大に対して責任を追及しても、政治家や所属政党の直接的な落ち度ではない為、批判しやすいのだろう。だから自分は、何人かのその手の政治家に対して言いたい。
東京医科大に対してまともな批判が出来るなら、杉田発言も同様に批判せよ
と。それをしない者は、結局「差別に無頓着」だが、点数稼ぎで東京医科大を批判していると言わざるを得ない。
「差別に無頓着」と言えば、ハフポストの記事「 東京医大目指し2浪の女性「当事者として差別を受けたのは初めて」」を読んでいて、見出しにも使われている
初めて受けた女性差別だった
という表現に違和感を感じた。この表現を主体的に用いたのが、取材を受けた女性なのか、記者なのかは分からないが、自分には不正確な表現に思えた。大学生に当たる年齢まで生きてきた中で、一度も性差別を受けなかったとは考えにくい。女性だからということではなく、「初めて受けた性差別だった」と男性が言っていたとしても同様だ。勿論、受けた性差別は人それぞれ程度の差があるだろうが、誰だってその年まで生きていれば、「男なんだから○○」「女なんだから○○」と言われたことぐらいあるのではないだろうか。確かに、そのようなセリフはとりわけ大騒ぎする程深刻なことではないだろう。しかし、誰かの勝手な男性感・女性感の押し付けという要素が確実に含まれる表現でもある。ポリティカルコレクトネスのような感覚で、そのようなセリフまでタブー化することは、個人的にはやり過ぎだと思うが、人によっては、性自認が生物学上の性と一致しない場合は特に、差別的に感じることもあるだろうし、その感覚を「絶対的におかしい」とまでは否定できない。
正確には「初めて受けた女性差別だった」ではなく、
初めて気づいた女性差別だった
だろう。例えば、ポジティブな発想を持っている人は、多くの人がイジメだと感じるようなことをされても、イジメと感じずにいられることもある。差別に関しても同様で、差別的な行為を受けていても、人によっては気にならない、気にしない場合もある。それはある意味では「差別に無頓着、鈍感」とも言えるだろう。差別を差別と感じないことはとても幸運なことだ。ある意味では「素晴らしい」とすら言える前向きな姿勢でもあるだろう。
ただ、そのような感覚が他人を苦しめることもある。例えば、杉田議員は懸案のコラムの中で、自分の知り合いだけを根拠に「LGBTへの差別偏見などない」と言っているし、彼女は「女性格差も存在しない」という持論も持っているようだ。ツイッター上で彼女を擁護した小林 杉並区議も、「私の周りには小学生の頃から同性愛者の友達がおり、同性愛者の方々に向けての差別が日本にあるなんて考えたこともなく」と思っていたと言っている。また、谷川とむ議員も、「僕の"谷川とむ"も本名ではなく通称ですが、それで活動できています。夫婦別姓についても、法律化してなんでも枠を拡げていくと、大変な労力がかかってくる」と、自分には不都合がないから夫婦別姓など必要ないという主張をしていた。
彼らも「差別に無頓着、鈍感」と言える。彼らは差別を差別と感じない幸せな人でもあるが、何が問題なのかと言えば、その感覚を他者に押し付けようとしていることだ。彼らは自分や自分の周辺という、とても少ないサンプルだけを根拠に、差別に悩む人達を否定しようとしている。言い換えればそれは、差別を黙認・容認、場合によっては差別に加担する行為になることもある。何より彼らは国・地方の議員であるにもかかわらず、新聞やテレビなどで取り上げられている差別・偏見に関する情報<自分の経験、という感覚を持ち合わせていることだ。そんな視野の狭い人たちに政治家が務まる筈がない。
差別に鈍感なことは素晴らしいことだが「私は差別とは思わないから、お前もそう思って当然」的な感覚を、安易に人に押し付けてはならない。その手の同調圧力は、時として多数派による少数派への口封じにもなるだろうから、多様性の否定につながることもある。と言うと、短絡的な人達は「多様性を否定することも、多様性の1つとして認めろ」などと言いだすのだが、多様性を否定することを認めることは、多様性を蔑ろにすることに他ならないので、そんな明らかな矛盾を含んだ話を認められるはずがない。