「おもちゃの銃持つダウン症男性を射殺 スウェーデン警察」。朝日新聞の8/4の記事の見出しで、ほぼそのままの内容である。記事はかなりコンパクトにまとめられており、どの程度の批判が起きているのか想像し難い。だが、一般的に実際の銃が殆ど流通していない日本で同じような案件が起きれば、警察への非難がかなり高まるだろう。相手が銃口をこちらに向け、それがおもちゃと判別できなかったとしても、致命傷になるような部位に向けて発砲するべきではない。勿論狙いが逸れたとか、緊張で動転するということも考えられるが、それでも実銃を一般人が持っている可能性がかなり低いという、日本の状況を勘案すれば、過剰な対応と言われることになるだろう。
個人的には、警察官が銃を持っていたからこそ、日常的に銃に関わっていたからこそ起きた悲劇のようにも思える。毎日銃に触れて生きていれば、触れていない者よりも確実に銃が身近なものになる。スウェーデンでの銃犯罪の頻度がどの程度かは知らないが、日本であれば、銃のようなものを誰かが持っていたとしても、中には過敏に疑心暗鬼になる人もいるだろうが、多くの人はモデルガン・おもちゃという前提でまず考えるだろう。勿論、強迫事件に用いられるような場合は別だ。しかし、警察官は一般人とは異なり、ほぼ毎日銃に触れ、銃の脅威を一般人よりは身近に感じるような状況にある。他者が銃を所持することへの脅威は、自分がそれを所持することで余計に高まるように思う。そうすれば、誰かが銃のようなものを所持していた場合、一般人より疑心暗鬼に駆られる率は高まるのではないだろうか。
人気漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」に、ボルボ西郷という元傭兵で銃器のエキスパートという設定のキャラクターが登場する。異常に警戒心が強く、全身に様々な武器を仕込んでいるが、同時にささいな事にも過敏に反応を示す臆病さを持つ者としても描かれている。彼の性質はある意味では、最大限の警戒心を持つ者とも捉えることが出来、万が一にも事件・事故を起こさせない為の姿勢とも受け止めることが出来る。しかし、今回のような過剰防衛を誘発させる一つの要因にもなり得る。漫画の世界の話ではあるが、作者の秋本 治さんは、ボルボ西郷の過剰な警戒心が様々な騒動を誘発する様を描いている。秋本さんにそのような意図があったかどうかは分からないが、自分は、武器・銃を持っているからこそ、他人が同じ武器・銃のようなものを持っていること、持っているかもしれないという疑いについて、強く懸念を感じすぎる側面もあるのだと思う。
要するにこれは抑止論への疑念で、お互いが武器を持つことで対立はより深まっていく側面があるのではないか? ということだ。例えば現在同じ陣営である核保有国・アメリカ・イギリス・フランスだって、どこでどう対立が始まるか分からない。万が一対立が始まってしまったら、お互いが核を持っている所為で余計に対立が深まるのではないか、と思えてしまう。
昨日・8/6は広島に原爆が投下された日で、現地では式典などが催され、報道番組で取り上げるのは当然のこと、一部の局は特別番組を放送していた。今朝のMXテレビ・モーニングCROSSでもこの件を取り上げていたが、モーニングCROSSで核関連の話題を取り上げると、必ず1件は「日本も核保有するべき」という視聴者ツイートが表示される。北朝鮮の核保有を国連決議違反だと非難している国が核保有を宣言できる立場にあるだろうか。また、北朝鮮は核・ミサイル開発、保有について、世界各国から制裁を受けている。同じ制裁を受ける以上のメリットが核保有にあると言えるだろうか。
また、もし日本が北朝鮮の脅威を理由に核保有に踏み切れば、韓国や東南アジアの国々も同じような理由で核保有を検討し始めるだろう。そのまま世界各国が核を保有するような状況に陥れば、国家以外のテロ組織などに核兵器が流出する恐れは一層高まるし、不用意に核兵器が使用される率も高まるだろう。銃が一般人のかなり身近にあるアメリカ社会を見れば、核兵器が世界中に蔓延した結果どのようなことが起きるかは、容易に想像がつくはずだ。
このような視点から考えれば、抑止論が如何に大きな副作用を孕んだ話であるかは明白ではないだろうか。全然好ましいとは言えないが、一部の大国が核を所有しているだけなら、歯止めを掛ける手間も、決して小さいとは言わないが、一部に限定出来る。しかし、もし核兵器が世界に蔓延してしまったら、歯止めを掛けるのも確実に容易ではなくなる。むしろ歯止めなど掛からないと言ってもいいかもしれない。そんな事になれば確実に今以上に疑心暗鬼が広がる世界に陥る。「日本も核保有すべき」と主張する人は、あまりにも考え方が短絡的過ぎると言わざるを得ない。