スペインで15世紀のマリア像がド派手に修復されたと話題になり、複数のメディアが伝えている(例:時事通信の記事)。スペインでのこの手の修復は今回が初めてではなく、2012年にキリストの肖像画が、称して元とは似ても似つかない状態に修復されてしまったことが話題になったあたりから、
スペインのエクストリーム修復四天王 pic.twitter.com/mGDhZnZP7G— いきうめ (@dilettante_k) 2018年9月10日
このツイートが紹介しているように数件起こっている。2012年のキリスト肖像画の街では、これが話題になったことで寧ろ観光客が増えたそうで、今回も2匹目のどじょうを狙っているのではないか?という見方もあるようだ。
この件についての報道は、ネガティブな見解が殆どで「祖先の遺産の破壊」とか、「けばけばしい馬鹿げた色彩」などの批判が噴出していることに注目して伝えているし、自分が見かけた日本のテレビでも、コメンテーターらが「田舎のさびれたテーマパークにありそう」だとか、「アニメみたいになってしまった」などと評していた。
自分も確かに田舎のテーマパークにありそうだとは感じたが、でもそのような塗装が必ずしも悪いものではないとも思う。勿論低い評価を与えること自体には問題はないと思うものの、現在の状況のように、報道機関が揃いもそろってこき下ろすような態度を示しているのにはやや違和感を感じる。ただ、2012年の件を念頭に2匹目のどじょうを狙ってこの塗装なら、実際は「ネガティブでもいいからどんどん取り上げて話題にしてくれ!」と当事者らは思っているのかもしれない。
日本やイギリスでクラシックカーをどう扱うかといえば、不動の状態でも、埃や傷までその車の歴史としてそのまま保存しようとするか、若しくは生産当初の状態に戻すというのが圧倒的に主流だ。一部に1960-70年代のクルマから、当時の性能が決してよいとは言えないエンジンや足回りを降ろし、1990年代以降の現代的なエンジンや足回りに換装して実用性を高めるという改造を施す人らもいるものの、邪道だとか場合によってはクルマへの冒涜とまで言われることもあるようで、確実に少数派だ。
それに比べるとアメリカの自動車文化はかなりおおらかだ。戦前からホットロッドと呼ばれるクルマの改造文化があり、特に1950年代頃に、1930年代のフォード車に大掛かりな改造を施す文化が盛り上がり、その文化は今でも受け継がれている。1950年代には改造ベースにもってこいの20年落ちの単なる中古車だった1930年代のフォードは、現在はかなりの希少車になっているが、今でも生産当時の姿に戻す以外の改造が施されることがよくある。これは大衆車だったフォードに限らずビュイックやキャデラックなどの高級車種でも同様だ。確かに日本やイギリスと同様当時の姿に戻すべきと考えている人もいるようだが、それでも、現代的なエンジン・足回りに換装するような改造が明らかに邪道と捉えらえるわけではない風潮があるように見える。
前段で紹介したように、クラシックカーをどう扱うかについては、
- 修理すらせず埃すら歴史として完全に現状維持
- 当時の状態・新品状態にレストア
- 実用的なエンジン・足回りに載せ替えて日常利用できるようにする
- アメリカ人的発想の、切った張ったを伴うプラモデル感覚の超絶カスタム
何が言いたいのかと言えば、マリア像のド派手塗装も、塗装のセンスが好きじゃないという事には問題はないのだろうが、それがたとえ15世紀の像だったとしても、どう扱うかは当時者の自由であって、あまりにもこき下ろすような批判をすることは、単に無責任な外野がやいのやいの言っているようなもので、決して正しいことをしているようには見えない、と個人的に考えているということだ。約500年前の像と聞くととても貴重だと思うだろう。それはとても真っ当な感覚であるとも思う反面、5年前も50年前も500年前も、視点によっては大した差はないとも思えてしまう。
割れた陶器などを修復する金継ぎという技法を、偶然なのか最近いくつかのテレビで紹介していた。金継ぎは割れ目を分からないように元に戻すのではなく、割れたところを漆と金でつないで新たな作品とするという技法だそうだ。破片が見当たらない場合は、別の陶器片、しかも敢えて色彩の異なるものを加えることもあるそうだ。数百年前の陶器を修復することもあるが、それでも元の姿に戻すのではなく新たな演出を加えるというような技法である。
多くの人は、古いものは現状のまま保管するか、当時の姿に戻すことが、最も好ましい対処であると考えているだろうが、果たしてそれはいつ何時でも正しい感覚なのだろうか。個人的には必ずしもそうとは言い切れないと考える。