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自由な自己主張は常に責任を伴う


 ツイッターの構造上の問題点に関して、このブログでは文字数制限をしばしば指摘してきた。厳密にはツイッターだけではなく、ラインのようなチャット系文字コミュニケーションや、古くは2ちゃんねる改め5ちゃんねるのようなネット掲示板上での文字コミュニケーションの影響もあるだろうが、文字数制限が言葉足らずの主張を促進している側面が確実にあると考える。言葉足らずの主張をしておきながら、いざ不適切な点を指摘されると、やれ「誤解」だの「勝手な解釈」だのとする者が決して少なくない状況をとても憂慮する。
 このような状況を更に悪化させているのは、まともな演説や主張が出来ない政治家が、所謂失言(個人的には失言ではなく、単に本音が溢れ出ただけだと思う)についての釈明する際に、責任逃れの常套句のように「誤解を招いた」と謝罪していることだと考える。


 自分は、ほぼ毎朝見ているMXテレビ・モーニングCROSSがテレビ画面に表示する視聴者ツイートや、自分のタイムラインに適切な認識に基づいているとは言えないツイートが表示された際に、スルーせずに違和感を表明することにしている。批判や指摘をリプライすると「有名人でもない大してフォロワーもいない個人アカウントのツイートに何を熱くなっているのか」と揶揄されることもあるが、不適切な言説に有名も無名も関係ない。というか、寧ろ匿名性のある無名アカウントで無責任に不適切な言説を表明している者の方が、所謂有名人よりも質が悪いとすら思える。不適切な言説を見て見ぬふりすれば、している者はそのような言説を止めないだろう。それがつもりつもって差別や偏見に満ちた主張がSNSに蔓延しているのが現状だと思っている。
 批判や指摘をしたところで、当事者が不適切な言説をすぐに改めるとは思わないが、少なくとも批判や指摘がなければ、自分が不適説な言説をしていると感じるきっかけはないだろうから、やはり「おかしい」ことには「おかしい」と言い続ける必要があると思う。また、いくらフォロワーが少なかろうが、そのツイートは誰もが目にすることが出来るし、同じようなツイートを何度か目にすれば、影響を受けて「そうなのかも?」と考えるようになる者がいるかもしれない。特に未成年などは充分な分別が備わっているとは言えず、そのように考えてしまう恐れがあるし、また、ネットに疎い高齢者層なども、これまで他のメディアでは書かれていなかったことを目の当たりにすることによって、例えそれが嘘・誤情報であっても、そのインパクトだけで支配されてしまう恐れがある。これは今年注目を浴びた、弁護士へ不当な懲戒請求が呼びかけられ、それを正当な事と信じて疑わず実行した中に、分別のありそうな年齢の者が多く含まれていたことからも明らかだ。

 批判について、誤解とか勝手な解釈だと責任逃れする態度を示した者の代表格として、「『LGBT』支援の度が過ぎる」と題するコラムの中で、「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」と主張した自民党の国会議員・杉田 水脈氏や、彼女を擁護する文章を今月発表した小川 榮太郎氏などが思い浮かぶ。彼らは、批判に対して「全文を読んで貰えば不当な批判だということがわかる」、要するに批判は誤解に基づいているという主張をしているが、全文読んでも批判が的外れだとは全く思えなかったし、どちらの主張についても、全文に渡って詳細に不適切な点を指摘する批判が幾つもされており、勿論、全てが全て妥当ということでもないだろうが、それでも彼らの主張に対する批判が全く、全て、的外れであるとは到底言えない。
 もし批判が的外れであると彼らが本当に思っているのなら、彼らの主張に対して詳細に指摘・批判が行われたように、行われた批判について何がどう不適切なのかを詳細に指摘するべきではないだろうか。それをせずに「誤解だ」「勝手な解釈だ」「全文読めばわかる」と言うだけでは、単に、誤解・勝手な解釈・全文読んでない批判である、ということで片付けたいだけと指摘されても仕方がないのではないか。

 自分がネット上で差別的・偏見だと感じたツイートへ、たとえば「これでは差別・偏見を公然と主張しているも”同然”」などと批判・指摘をリプライした際に、ほぼ「そんなことは書いてない、誤解だ、勝手に決めつけるな」という反論が返ってくる。大体一言目は「私が○○(差別や偏見)を肯定する、して何が悪いと書きましたか?」と言ってくる。しかし、こちらも相手がそう明示しているとは指摘していない。「言っているも同然」という指摘に対して明示したか否かで反論されても、それは論点ずらしでしかない。そう指摘すると次返ってくるのは「そんな意図はない、誤解だ、勝手に決めつけるな」なのだが、こちらが「ではどんな意図なのか?」と聞き返しても、十中八九明瞭な答えが返ってこない。それでは「差別・偏見を公然と主張しているも”同然”」と指摘されても仕方がないのではないか。大概そう指摘したところで「そんなことはない」の一点張りだが、同様の主張をすれば、同様の指摘をされるかもしれないということだけは、少なからず相手に感じさせられるだろうから、自分はそれだけでも批判・指摘には意味があると考える。
 差別や偏見を主張する者は大概、差別や偏見を正当化する。白人至上主義者は「有色人種より白人の方が優れているのだから、彼らを白人が支配するのは当然」とか、これまでも今も白人に優位な社会が現実に広がっているのを勘案せず、「黒人らが権利を主張することで白人社会が脅かされている」などとして、人種差別を正当化しようとする。また、日本でも嫌韓論者らは、ヘイトスピーチをする事について、日本の為に必要な正当な行為ともれなく主張し、民族・出自による差別を正当化しようとする。障害者や女性、性的少数者に対する差別や偏見だって、前に挙げた2つに比べたら程度は低いかもれいないが、似たようなもので、結局何かにつけて差別や偏見を持つ者はそれを正当化しようとする。要するに、そのような感覚をエスカレートさせない為には「その正当化は合理性に欠けている」と指摘し続けるしかない。

 差別や偏見は残念ながら、人間が他の動物同様に持つ動物的な本能の1つだろうから、根絶することは難しいだろう。 ただ人間は他の動物と違うとも思うし、当然本能だから差別や偏見は仕方ないと容認することも出来ない。ある程度差別的な感覚を持つ者が出てくるのは仕方がないとしても、物理的な暴力が制限されるのと同様に、精神的な暴力も制限する必要はあるし、差別や偏見が横行し蔓延するような状況になること、要するにエスカレートするようなことがないようにしなければならない。
 その為には、国民の代表である国会議員が憲法の精神を無視して、一部の人に偏見を向けるようなことを容認してはいけないし、そんな人を擁護しようとする人がいれば批判しなくてはならない。また政治家にしろ文芸評論家にしろ、言葉を生業にしている職業なのだから、そもそも「誤解されるような文章」を書くべきではないし、そんな文書を公表するのなら職業に必要な資質が欠けていると言わざるを得ない。
 また、誤解を招くような主張をしてはならないのは政治家や評論家に限った事ではない。不特定多数に向けて主張する者は出来る限り誤解を招かない主張を心掛けなくてはならない。誤解を招く主張は、本人にその意図がなくても他者を著しく傷つける場合もある。もしそんなことになれば、いくら本人にその意図がなかったとしても、主張した者には何らかの責任が生じる。包丁を裸で持ち歩いていた時に、不意に人に当たって傷つけたというケースに当てはめれば分かるだろうが、たとえ人を傷つける意図がなかっとしても、結果的に傷つけてしまえば何らかの責任は負わなければならない。そういう事にならないように注意を払う責任を、自由に自己主張する者全てが負っている。

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