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スタンフォード監獄実験と弁護士への不当懲戒請求


 2001年(日本では翌2002年)に公開された「es(エス)」という映画がある。それはドイツの映画で、タイトルになっているesとは、ドイツ語で「それは」という意味なのだそう。ただ、この場合は精神分析学の用語で「深層心理中の無意識の部分」の事のようだ。自分はこれまでにこの映画を何度か見ているが、公開直後に渋谷の映画館で初めて見た時は相当衝撃を受けた。
 ドイツのある大学で、被験者が模擬刑務所で看守と囚人に分かれそれぞれの役割を演じながら2週間過ごすという設定で、実験の中で看守と囚人が対立を始めた結果、看守役らが暴走し始め、暴力的で凄惨な事件に至るという内容の映画で、全くのノンフィクションではなく、映画ならではの演出も含まれていたとは言え、過去にあった実際の実験・事件がモチーフになっていた映画だったからだ。



 モチーフになった実験とは、1971年にアメリカのスタンフォード大学で心理学者・フィリップ ジンバルドー教授が行った実験で、スタンフォード監獄実験(Wikipedia)と呼ばれている。この実験の結果を以てジンバルドーさんは、看守役の被験者はより看守らしく、受刑者役の被験者はより受刑者らしい行動をとるようになるということが証明された、要するに、人は特殊な肩書きや地位を与えられると、その役割に合わせて行動してしまう、と結論付けたそうだ。自分も映画を見た直後に興味をそそられてウェブなどでこの実験を少し調べてみたが、このジンバルドー教授が示した実験の評価は概ね肯定的に捉えられていたようだった。また、実際の実験が行われたのはアメリカだが、映画はドイツで制作され、舞台もドイツだった為、ナチスドイツの強制収容所で看守が何故ユダヤ人らを大虐殺できたのか、というような事も連想させられ、当時の自分もその評価に一定の説得力を感じていた。

 しかしBuzzFeed Japanが「人は環境によって悪魔になるのか あの「監獄実験」がいま再び見直されている」という記事を9/29に掲載したので、これを読んだ上で昨夜また「es」を見ながら考えてみた。記事ではジンバルドー教授の実験の評価が適切とは言えないのではないか?という見解が最近示され始めていること、実験の中で看守役に対して攻撃的な振舞いが求められていた恐れや、囚人役を当初から実際の囚人以上に非人道的に扱っていた恐れがあることなどに触れ、
 邪悪な状況に置かれた人は、基本的には自らの意志で邪悪になるとされたが、実際は被験者が自発的に権力を乱用したのではなく、特定の振る舞いをするようにコーチされていたことがうかがえる
という評価が妥当であるという、いくつかの主張を紹介している。この話を念頭に置いて「es」を見ると、看守役が暴力的になるように、また囚人役が最初から必要以上に非人道的に扱われたという描写はそれ程強調されていないようにも見えた。勿論映画は映画であって、あくまでも演出があり、また、制作当時の実験の評価を勘案した内容ではあるが、もし記事で指摘されているような状況が実験の背景にあるのなら、「es」は実験の実状を描き切れてはいないのかもしれないとも思えた。

 BuzzFeed Japanの記事を読んでいて、今年の前半に大きな注目を浴びた「弁護士への不当懲戒請求事件」を思い出した。「違法である朝鮮学校補助金支給要求声明に賛同し、その活動を推進する行為は、日弁連のみならず当会でも積極的に行われている二重、三重の確信的犯罪行為である」などと主張する、余命三年時事日記という個人ブログに影響された不特定多数が、標的にした複数の弁護士に対して、適切な根拠もなく懲戒請求をしたという事案だ。該当する懲戒請求は万単位で、一説には10万を超えるともされている。この事案は複数の大手メディアでも取り上げられ、身勝手な正義感のようなものを抱いた多くの人が、無責任かつ不当に懲戒請求をするに至ったというような見解が、その大勢を占めていた。
 この事案は現在進行中で、まだ明確な結果・結論には至っていないようだが、個人的にはスタンフォード監獄実験に対する「邪悪な状況に置かれた人は、基本的には自らの意志で邪悪になるとされたが、実際は被験者が自発的に権力を乱用したのではなく、特定の振る舞いをするようにコーチされていたことがうかがえる」という評価を裏付ける、壮大な社会実験的な側面があったように思う。不当に懲戒請求を行った人達には特殊な地位も肩書も与えらていない。彼らがそのような行為に至った大きな要因は、当該ブログにそそのかされた(記事の言葉で言えばコーチされていた)ことにあると言っても過言ではなさそうだからだ。
 視点を変えれば、当該ブログが不特定多数の人に「日本社会を守る愛国者」的な肩書を間接的に与えていたとも言えるかもしれないが、そう考えても結局それ自体も「そそのかし」の1手法だし、不特定多数の者が不当懲戒請求に至った要因を、環境に求めてはならないとしか言いようがない。その原因は扇動を行った当該ブログであり、扇動されて行為に至った不特定多数それぞれ個人に責任がある。BuzzFeed Japanの記事でも、ジンバルドー教授の示した結論に懐疑的な、アレックス ハスラム教授の
 ひどい状況下に置かれた人はひどいことをするという主張も、政治的にはきわめて問題が大きいと思います。なぜなら、そう主張すれば、いっさいの行為主体性が排除され、責任が取り除かれてしまうからです
という同種の見解を紹介している。


 ジンバルドー教授が言うように、人間には、周囲の環境に流されてしまい、場合によっては純粋に物事の適不適を考えなくなる性質もあるのだろう、とも思える。そしてその結果最悪の事態が起こることもある。例えば教室内で起きるいじめだ。主体的にいじめを行うのはごく少数かもしれないが、いじめが悪いと分かっていながら見て見ぬふりをしたり、主体的にいじめを行う以外の大勢も、消極的にではあるかもしれないが、いじめに加担することもあるだろう。それは視点によっては「いじめられる者が悪い」という空気に影響され、いじめに加担するようになったとも言えそうだが、確実に「いじめられる者が悪い」という空気を作り出している者がいるし、別の視点で見ればそれはそそのかし行為でもある。
 起きている事象は一つであっても、それをどう評価するかによって、責任の所在が確実に変わってくる。記事を読んで、実験で起こった暴力・非人道的行為を環境の所為にすることが正しいのならば、例えば、杉田議員のLGBTや子を産めない・産まない人への差別的な発言も、議員という肩書・重責がそうさせたという言い分が通ってしまいそうで、適切では言えないのではないか?と考えさせられてた。

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