スキップしてメイン コンテンツに移動
 

教科書持ち帰り問題について


 昨今、学習指導要領の改訂などによる影響もあり、教科書が以前より厚く重たくなり、その重さは、BuzzFeed Japanの記事「文科省「置き勉」を認める通知へ 3割の子どもが「ランドセルで痛み」も」によると、40年で約2倍になっているそうだ。現在多くの学校で、宿題や家庭での予習復習の為に教科書を毎日持ち運ぶことを推奨しているようだが、持ち運びの負担が大きいとの声を受けて、文科省が方向転換を促したというのが当該記事の趣旨だ。
 この話についてはいろいろな視点からの主張が飛び交っている。例えば、この教科書を毎日持ち運ぶことを推奨する学校の方針は、ブラック校則と似たようなもの、という視点がある。教科書の使用頻度が最も高い場所は学校なのに、毎日持ち帰ることに意義が本当にあるのか、宿題予習復習の為に必要な教科書だけ持ち帰ればよいのではないか、というような話や、少なくとも小学校では、そもそも教科書を使うような学習は学校で行えばよい、宿題も必要ないし予習復習をしなくとも学習効果のある授業が行われるべき、なんて話もある。これらの話には違和感を感じるところもあるものの、考え方として圧倒的に何かがおかしいとも思えず、児童全員に教科書の毎日の持ち運びを推奨(半ば強制)する必要はないのかな?とも考えさせられる。

 新学年になった後、旧学年の教科書を手元に置いておく、新学年になった後も使っているという人の割合は一体どの程度なのだろうか。自分は社会科系の授業全般が好きで、地図帳や歴史の資料集などは新学年になった後も手元に置き、何度か見返した記憶があるが、苦手・嫌いだった算数の教科書は学年が終わった後は一回も見た記憶がないし、他の教科の教科書もいつ処分したかさえも覚えていない。
 小学校の頃は、疑問も不満もなく、誰かに言われたわけでもなく当然の事として、自分も毎日教科書を持参し持ち帰っていたが、中学生になって部活に入ると学校に持っていく荷物にその道具が加わり、更に神奈川県だったので弁当(運動部だったこともありサイズがデカい)も荷物として増え、教科書を毎日持ち運ぶことに疑問を感じ始めた。そこで前段の話に気付き、中1の2月頃、何人かの先輩に新年度になったら教科書を譲ってもらう約束を取り付け、新学年開始時点で中2の教科書2セットを確保した。新品として手に入れた教科書は学校に置きっぱなし、家には先輩に貰った教科書を1セット常備したので、毎日持ち運ぶ必要がなくなった。自分はこれを高3まで毎年続けた。不要になった教科書は後輩に回し、自分は先輩から貰うというサイクルだった。勿論、指定教科書の変更や大幅な改訂もあり、全く教科書の持ち運びが無くなったということではなかったが、変更前・改訂前の教科書では全く役に立たないということはなく、必要に応じて必要な教科書だけを持ち帰ればそれで事足りた。
 個人的には、文科省が教科書の持ち帰り方針云々なんてことを言う必要はないし、学校が教科書の持ち帰りを推奨(半ば強制)する必要性もないと思っている。以前から制服のリサイクルはあったが、ネットなどでの個人間取引が用意になり、その傾向は更に強まっているように思う。各個人が地域のつながりやネットを介した個人間取引等を利用して中古の教科書を手に入れ、うまく対処すればいいのではないか?と思う。こう言うと「対処できない家庭・子供もおり、平等性が下がる」と反論もあるかもしれないが、だったら学校が率先して不要の教科書回収し、必要な家庭・児童に届くような施策を行えば良いのではないだろうか。なんでもかんでも平等平等言い過ぎるのは少し違うと思う。

 タブレット端末で電子書籍を読むようになって、最も便利さを感じるのはマンガだ。小説等活字の本は文庫サイズも一般的だし、半日程度かかる移動の際でも1冊ないし2冊程度あれば事足りるし、紙媒体でも持ち運びにそれ程不便を感じない。しかしマンガは活字本に比べて非常にかさばる。半日程度の移動の際にマンガを持っていくとしたら、1時間1冊計算で考えたとしても5冊は持って行きたいところだ。もっと早いペースで読めるマンガもあり、読んでみない事にはどのくらい時間がかかるかも分からないから、10冊手元にあるのが理想的だ。しかしマンガ10冊は持ち歩くのにはとても邪魔な存在だ。
 タブレット端末 + 電子書籍ならば、そんなことを考える必要がなくなる。例えば1つのマンガを最初から完結まで全巻持ち歩いたとしても、それが100巻を超えていようが持ち歩くのはタブレット端末だけで済む。保険としてサブバッテリーを持っていくとしても本2-3冊分だし、それらは読書以外にも使えるので読書の為だけの荷物ということでもない。しかも、万が一移動途中で最後まで読み終わっても、通信ができれば出先で、どこでも新たなに本・マンガを手に入れられる。

 何が言いたいのかといえば、かさばる本はタブレット端末と電子書籍で解決するのに、なんで教科書の電子書籍化が進まないのか、ということだ。
 「タブレット端末は子供の乱暴な扱いに耐えられない」と主張する人がいる。果たしてそうだろうか。親に買ってもらった携帯ゲーム機やスマートフォンを乱暴に扱う子もいるだろうが、決してそのような子は多くない。何故なら乱暴に扱って壊せばゲームが出来なくなる、ネット動画が見られなくなることは子供は知っており、壊してもすぐに新しいものを買いなおして貰えないことも重々承知しているからだ。教科書を電子書籍化しタブレットを専用にしてしまえば、乱暴に扱う子が問題になるかもしれない。しかし教科書・学習専用にせずに、子供が大事に扱いたくなる使い方を認めれば良いだけだと自分は思う。
 「教科書は汚してナンボ、電子書籍では書き込みにくい」と主張する人もいる。ハッキリ言って感覚が古い。10年以上前のタブレット・タッチパネルはそうだったかもしれないが、今は決してそんなことはないと思う。確かに、最も普及している7-8インチディスプレイのタブレットは情報の一覧性が低く書き込みもしずらいが、iPad Proなどの12インチ以上のディスプレイならそんなことはないし、スタイラスペンを使えば紙への書き込みとそれほど変わらない。というかそもそも、社会に出てからはワードやエクセル、パワーポイントで情報をまとめることを求められることも多く、デジタルデータ主体で学習を勧めることに児童・生徒の内から慣れるべきではないのか。

 教科書の持ち帰り云々という話については、このようにアナログ的な対処、デジタル的な対処がそれぞれあると考える。勿論他にも対処方はあるだろう。よく理由も考えずに「教科書は毎日持ち帰るもの」という認識を持つこと、対処法はあるのにその対処法のネガティブな点ばかりに注目して実行しないこと、などがこの話の本質的な問題性なのではないか?と自分は考える。

このブログの人気の投稿

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

読書と朗読を聞くことの違い

 「 本の内容を音声で聞かせてくれる「オーディオブック」は読書の代わりになり得るのか? 」という記事をGigazineが掲載した。Time(アメリカ版)の記事を翻訳・要約した記事で、ペンシルベニア・ブルームスバーグ大学のベス ロゴウスキさんの研究と、バージニア大学のダニエル ウィリンガムさんの研究に関する話である。記事の冒頭でも説明されているようにアメリカでは車移動が多く、運転中に本を読むことは出来ないので、書籍を朗読した音声・オーディオブックを利用する人が多くいる。これがこの話の前提になっているようだ。  記事ではそれらの研究を前提に、いくつかの側面からオーディオブックと読書の違いについて検証しているが、「 仕事や勉強のためではなく「単なる娯楽」としてオーディオブックを利用するのであれば、単に物語を楽しむだけであれば、 」という条件付きながら、「 オーディオブックと読書の間にはわずかな違いしかない 」としている。

あんたは市長になるよ

 うんざりすることがあまりにも多い時、面白い映画は気分転換のよいきっかけになる。先週はあまりにもがっかりさせられることばかりだったので、昨日は事前に食料を買い込んで家に籠って映画に浸ることにした。マンガを全巻一気読みするように バックトゥザフューチャー3作を続けて鑑賞 した。

敵より怖いバカな大将多くして船山を上る

 1912年に氷山に衝突して沈没したタイタニックはとても有名だ。これに因んだ映画だけでもかなり多くの本数が製作されている。ドキュメンタリー番組でもしばしば取り上げられる。中でも有名なのは、やはり1997年に公開された、ジェームズ キャメロン監督・レオナルド ディカプリオ主演の映画だろう。