スキップしてメイン コンテンツに移動
 

表現の自由は金で買え?


 憲法改正・国民投票の際に賛否に関するテレビCMについて、民放連は賛否のCMの量でバランスを取る自主規制をしない考えを10/12に示したそうだ。日経新聞の記事「民放連、国民投票のCM量的制限せず 議連に説明」によれば、
 国民の表現の自由を自主的に制限するのは難しい。扇情的な広告放送は、言論の自由市場で淘汰すべきだ
という見解を示したそうだ。 記事では、量的な自主規制をしない方針を説明した という文言の後にこのコメントが紹介されている。厳密な関連性は定かでないが、量的な自主規制を行わない理由が、この見解ということだという事のようで、この記事の伝え方が大きく事実に反していないのならば、民放連の見解は少しずれているのではないか。表現するのに相応の資金が必要になるテレビCMについて、国民の表現の自由などという話を持ち出すことにも違和感を感じる。


 同様の案件を取り上げた朝日新聞の記事「改憲の賛否CM自主規制せず 民放連方針、自民にも誤算」にはこうある。
 (民放連の専務理事である)永原氏は「広告という表現形態でも、その意思の表明は最大限尊重されなければならないことが、国民投票法の最も重要かつ根本の考え方」と強調。民間事業者が、表現の自由の一部制約につながる自主規制を決めることは「到底無理」と語気を強めた。
広告も表現の1形態である、という話は理解出来る。その意思表明は最大限尊重されるべき、という話も理解出来る。しかし、テレビCMという、多大な資金が必要な表現形態について表現の自由という話を持ち出し、それについて規制は必要ないという話をされてしまうと、「表現の自由を行使したければ金を払え、金を払えれば、国から公共の電波を使用することを認められた自分たちが、表現の自由を認めて放送してやる」と言っているように聞こえてしまう。

 また、日経新聞の記事にある
 扇情的な広告放送は、言論の自由市場で淘汰すべき
という話も、責任の放棄のように思えてしまう。この「テレビCMの適切不適切については言論の自由市場で淘汰するべき」という話はある意味では正しい。というか理想的にはその通りだと思う。しかし、この話が通るならばテレビCMだけでなく、番組内容についても同様の事が言えるのではないのか。民放連は自主規制団体とも言えるであろうBPOを組織し、不適切な内容が放送されれば指摘しているし、そもそも不適切な番組が放送されることのないように、各局内で相応にガイドラインが設置されているはずだ。「番組内容の適不適については言論の自由市場で淘汰するべき」ということになれば、そもそもBPOもガイドラインも必要なく、どんな番組だろうが放送した上で言論の自由市場で淘汰するべきということになるのではないのか。
 確かに、テレビ番組はテレビ局や制作者の責任で作られるもので、テレビCMは企業や団体・個人の責任で作られるものだから、CM表現にテレビ局が必要以上に介入するべきではないという話が絶対的におかしいとは言わない。しかし、テレビ番組の内容には確実に、その番組・放送局のスポンサーとなってCMを流す企業・団体・個人の意向が少なからず反映されているはずで、その意向が余りにも不適切であれば、テレビ局はその意向を反映しないという対処をする筈だ。にもかかわらずCMに関しては「私たちは放送しているだけで、内容には一切責任を持たない」と言い始めるのは如何なものだろうか。

 言論の自由・表現の自由は確実に最大限尊重するべき重要な要素であることに間違いはない。しかし今夏、新潮45が表現の自由を根拠に掲載した不適切な記事によって、どれだけの人が傷つけられたかを考えれば、メディアが表現の自由を根拠に、秩序を維持する責任を放棄することは決して許されないのではないか。日本のテレビ放送には、放送法4条によって
  • 公安及び善良な風俗を害しないこと
  • 政治的に公平であること
  • 報道は事実をまげないですること
  • 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること
が求められている。これには副作用とも言うべき弊害があることも確かだが、しかし一方でこの規定によって日本のテレビ放送の秩序が保たれている、というかテレビに限らず他のメディアにもその影響が及び秩序の維持に役立っている側面も確実にある。テレビCMはテレビ局の責任で制作されるものではないが、テレビ局が放送する、電波に載せるものという意味においては番組と同じだ。にもかかわらず、テレビ局が「表現の自由を最優先」とか「適不適の判断は言論の自由市場に委ねる」という表現で、実質的にテレビCMに関する責任を放棄すればどんな状況がもたらされるだろうか。
 個人的には、実質的に裕福な者に優先的に表現する権利を与えるという、公平とは言えない状況をつくり、さらには現在のSNSで一部の者が表明する差別的・偏見・誤認・意図的な嘘などをテレビ放送に載せることにもなりかねないのではないか、と考える。

このブログの人気の投稿

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになる

 攻殻機動隊、特に押井 守監督の映画2本が好きで、これまでにも何度かこのブログでは台詞などを引用したり紹介したりしている( 攻殻機動隊 - 独見と偏談 )。今日触れるのはトップ画像の通り、「 戦闘単位としてどんなに優秀でも同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになるわ。組織も人も特殊化の果てにあるものは緩やかな死 」という台詞だ。

フランス人権宣言から230年、未だに続く搾取

 これは「 Karikatur Das Verhältnis Arbeiter Unternehmer 」、1896年ドイツの、 資本家が労働者を搾取する様子を描いた風刺画 である。労働者から搾り取った金を貯める容器には、Sammel becken des Kapitalismus / 資本主義の収集用盆 と書かれている。1700年代後半に英国で産業革命が起こり、それ以降労働者は低賃金/長時間労働を強いられることになる。1890年代は8時間労働制を求める動きが欧米で活発だった頃だ。因みに日本で初めて8時間労働制が導入されたのは1919年のことである( 八時間労働制 - Wikipedia )。

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

馬鹿に鋏は持たせるな

 日本語には「馬鹿と鋏は使いよう」という慣用表現がある。 その意味は、  切れない鋏でも、使い方によっては切れるように、愚かな者でも、仕事の与え方によっては役に立つ( コトバンク/大辞林 ) で、言い換えれば、能力のある人は、一見利用価値がないと切り捨てた方が良さそうなものや人でも上手く使いこなす、のようなニュアンスだ。「馬鹿と鋏は使いよう」ほど流通している表現ではないが、似たような慣用表現に「 馬鹿に鋏は持たせるな 」がある。これは「気違いに刃物」( コトバンク/大辞林 :非常に危険なことのたとえ)と同義なのだが、昨今「気違い」は差別表現に当たると指摘されることが多く、それを避ける為に「馬鹿と鋏は使いよう」をもじって使われ始めたのではないか?、と個人的に想像している。あくまで個人的な推測であって、その発祥等の詳細は分からない。