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性別に関わらず能力で登用するべき?


 昨日の投稿でも書いた新たな内閣人事について、BuzzFeed Japanが「元「anan」読者モデル、焼きたらこ好き、インスタグラマーも…安倍内閣の新閣僚12人のプロフまとめてみた」という記事で、新たな顔ぶれの経歴をまとめている。新閣僚について改めて、本当に大臣という立場に相応しいのか疑わしい人物が多く含まれていると再確認する。その疑念が間違っていないことを証明するかのように、文科大臣が就任した直後の会見で早速、教育勅語について「アレンジをした形で、今の例えば道徳等に使うことができる分野は、私は十分にあるという意味では、普遍性を持っている部分が見て取れる」「同胞を大事にするなどの基本的な内容について現代的にアレンジして教えていこうという動きがあり、検討に値する」」などと発言したそうだ。教育勅語については、1948年に
 これらの詔勅の根本的理念が主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ国際信義に対して疑点を残すものとなる。
として、衆議院で「教育勅語等排除に関する決議」がされているし、参議院でも失効確認が決議されている。にも関わらず、何故教育勅語にここまで拘るのか。例えば「教育勅語でなければどうやっても教えられない何か」が明確に存在するのなら理解もできるが、そんなことは何もない。道徳云々、同胞を大事に云々など他の方法でも全然教育出来るはずだ。にも関わらず教育勅語に拘るという事は、勅、すなわち天皇、もっと言えば戦前の天皇を神と崇められた天皇を重んじたいという感情、言い換えれば宗教的な意味合いがあるとしか思えない。戦前の天皇制が何を招いたかという点、宗教的な意図を政治に持ち込もうとしている点など、複数の理由で不適としか言いようがない認識としか思えない。


 今朝のMXテレビ・モーニングCROSSでも、昨日の引き続き新内閣の話題に触れ、前段の話にも触れていたが、女性閣僚が1人に減ったことは首相が掲げる「女性活躍」に反しないのかという事にも触れていた。これについての視聴者ツイートの1つが自分の目に止まった。というか、自分はこれを無視できなかった。


確かに理想的には男女もしくはLGBT等に関わらず、能力がある適任者がふさわしい役割を担うことが望ましい。しかし現在の男性政治家・閣僚が圧倒的に多いという状況で、このような主張をすると、それは「女性の能力が男性より確実に能力が低いのだから、女性の政治家・大臣が少ないのは当然の結果である」ということにもなりかねないのではないか。女性の方が男性より能力が低いなんてことは、世界各国の政治現場の男女比を見てもあり得ないことなのは明らかだし、日本人女性が突出して政治的に劣っているなんてことも確実にない。
 しばしば「女性政治家は下駄を履かせてもらっている」なんて声を耳にする。確かに昨年防衛大臣だった女性政治家など、そのような人がいないわけではないが、それは決して女性政治家に限った話ではない。「下駄を履かせてもらって」大臣になり、相応の仕事が出来ずに資質のなさを露呈する男性政治家も少なくない。では何故女性政治家だとそのように言われてしまうのかと言えば、女性政治家が圧倒的に少なく、大臣や党の要職に就くとそれだけで男性政治家よりも圧倒的に目立つからだと自分は思う。

 結局このツイートは、「女性というだけで能力が適正に評価されない現状」が未だにあることを無視し、まるで既に男尊女卑傾向がほぼ解消し、日本の社会において男女平等が実現していると誤認しているから出来るツイートなんだと思う。男女の格差を強く意識することのない学生によるツイートか、若しくはとても理想的な環境が既に実現したコミュニティ内で生活している者によるツイートなのかな?と想像する。勿論これは皮肉だ。自分の周囲に男女格差を感じる状況がなくても、男女格差を強く訴える主張や報道はまだまだかなり多い。モーニングCROSSという、他局があまり取り上げない事案まで積極的に触れるような番組のハッシュタグを付けてツイートする人が、それを認識していないとは到底考え難い。

 結論を言えば、「男女もしくはLGBT等に関わらず、能力がある適任者がふさわしい役割を担うべき」という話は正しい。決して間違っていない。しかし、今それを主張するのは適切とは言えない。「男女もしくはLGBT等に関わらず、能力がある適任者がふさわしい役割を担うべき」と主張する前にまず、男女・LGBT等に性よる格差を解消しなくてはならない。その順番を間違えてはならないし、順番を間違えれば性による格差の改善を妨げること、もしくは更に悪化させることにも繋がりかねない

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