新文科大臣・柴山 昌彦氏が就任会見で教育勅語について、
アレンジをした形で、今の例えば道徳等に使うことができる分野は、私は十分にあるという意味では、普遍性を持っている部分が見て取れるなどと述べたことについては、10/4の投稿でも既に触れた。柴田氏の認識が何故おかしいのかにも触れたので、ここで再び繰り返すことは避ける。ただ1つだけ、おかしい点を付け加えるとすれば、近現代史研究者で、軍歌などにも詳しい辻田 真佐憲さんが現代ビジネスの記事「またか…「教育勅語」の再評価が繰り返されるシンプルな理由」で指摘しているように、教育勅語の”勅”を柴山氏が適切に理解しているとは到底言えないことも、その理由の一つだ。
同胞を大事にするなどの基本的な内容について現代的にアレンジして教えていこうという動きがあり、検討に値する
”勅”とは何か。勅とは勅命と同義で、皇帝や天皇の命令・詔(みことのり)を意味する。要するに教育勅語は天皇から国民への命令だ。「教育勅語には良いことも書いてあるから道徳教育に活かせる」という人達はこの”勅”をどう考えているのだろうか。良いことが書いてあろうが教育勅語は天皇から国民へ下された命令である。勅語を道徳教育に活かすという事になれば、国民主権は道徳的でないという意味合いが、意図せずとも生まれるだろうし、そのような解釈が統帥権を理由にした軍国主義や戦争に繋がったという背景が確実にあり、だから1948年に国会で「教育勅語等排除に関する決議」がされた筈だ。教育勅語の一部に道徳教育に活かせる部分があるとしても、それを勅語のまま活かす必要もないし、憲法で象徴天皇制・国民主権が前提とされている社会では明らかに矛盾を生じることになるだろう。また、天皇から国民への命令という側面を無くすのであれば、それは教育勅語のアレンジではない別の何かである。教育勅語のアレンジなんて表現をわざわざ用いる必要はない。国会議員、しかも文科大臣が「教育勅語をアレンジして教育に活かす事は検討に値する」なんて言うべきではないことを、大臣自身が認識していないことは明らかに資質に欠けると言わざるを得ない。
朝日新聞の記事「 柴山文科相、教育勅語「アレンジし道徳に使える分野も」」によれば、就任会見の中で教育勅語に書かれている普遍的に尊重するべき事の例として「同胞を大切にするとか、国際的な協調を重んじるとか、基本的な記載内容」などと述べたそうだが、彼が挙げた「同胞を大切にする」「国際的な協調を重んじる」が、直接的に教育勅語に書かれているとは到底判断し難い。
教育勅語の現代語訳は様々あり、訳した者の独自解釈が多分に含まれているものも多く、もしかしたらそのような独自解釈を基に柴山氏はそのように述べたのかもしれない。どんな経緯かは定かでないが、
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦󠄁相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ(汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合い、朋友互に信義を以って交わり)という部分をかなり拡大解釈した話なのだろう。同胞云々に関しては家族や友達という部分がそれに当たると解釈できるとしても、「国際的な協調を重んじる」なんて話はこの部分にも、そして教育勅語の他の部分にも全くないと言っていいいだろう。
柴山氏は、就任会見での教育勅語に関する発言に関して、その翌日・10/5の会見で記者に指摘を受けて再び所感を示したようだ。朝日新聞の記事「柴山文科相、教育勅語を「国として検討とは言ってない」」によると柴山氏は、
国として検討するとか、積極的に推奨する準備を進めているとか、そういうことはみじんも申し上げていないとしたそうだ。 文科大臣が就任会見で「(教育勅語をアレンジして教育に活かすことは)検討に値する」と発言しておいて、「国として検討するとは言ってない」とは、自分の発言に関しては随分と厳密な解釈を要求するようだが、前段で示したように、彼の教育勅語の解釈はかなり大雑把であるのがとても興味深い。自身の発言に関してそこまで厳密な解釈を求めるのならば、自身の教育勅語の解釈でも、国際協調云々などという明確に書いてある事以外の解釈をまず控えるべきではないだろうか。これではご都合主義の苦しい言い逃れと言われても仕方ない。
首相は新内閣人事について「適材適所」を強調したが、早速「適材適所」に?が付いてしまうような事態だし、続投となった麻生財務大臣副首相は、改めて公文書改ざんの首謀者とされた佐川氏の、国税庁長官への任命を今でも「適材適所」と言い張ったようだ(朝日新聞の記事)。現政権の「適材適所」とは、世間一般で用いられる「適材適所」とは全く違う意味のようだ。真摯・丁寧に引き続き、自民党内には誰も「適材適所」の正しい意味を首相・総裁に進言できる者がいないのか。それとも自民党内には「真摯・丁寧・適材適所」の意味を正しく認識している者が誰もいないということなのだろうか。