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人質司法の問題と、政治家の言う「一般論として」の矛盾について


 日本を代表する自動車ブランドの1つ・日産の会長が逮捕されるというニュースが報じられたのは11/19のことだった。当時のハフポストの記事「日産のカルロス・ゴーン会長らを逮捕 東京地検特捜部。自身の報酬を少なく申告した疑い」によれば、ゴーン氏は自身の報酬を過少申告したという、金融商品取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載)の疑いで逮捕されたそうだ。きっかけは日産内部からの告発だったらしく、日産のルノー支配に対するクーデターか?なんて見解も示されてきた。自分は大学で経営学も学んだが、正直その分野は苦手で、今回の件に関してもゴーン氏の行為が逮捕されるべき内容だったのか未だに判断し難い。
 ただ今回の件で、日本の司法制度上の身柄拘束に関する問題点、所謂 人質司法の問題に対して海外からの批判が向けられているのは、非常に重要な事だと感じている。人質司法の問題とは、本来取り調べの為の逮捕勾留は原則的に23日しか認められないが、逮捕者が取り調べで容疑を否認し続ける場合などに、罪状を恣意的に切り分ける等の手法でそれよりも大幅に長く逮捕勾留される、つまり容疑を否認すると不当に長く拘留されることが横行している、という問題だ。


 あくまで ”原則として” 23日間しか逮捕勾留は認められないという事なので、証拠隠滅や逃亡の恐れが著しい場合などは例外的にそれ以上の勾留期間が認められる場合もあるし、明らかに別の罪状があればそれについては別計算だが、現状では例外を適用する件数が多くなっているそうで、「勾留期間の原則と例外が逆転している」という指摘がなされている。
 人質司法の問題に触れると、「悪い人を捕まえて罪を認めさせることの何がいけないの?」と言う人がそれなりにいる。だが、よく考えてみたらどんな問題があるか簡単に分かるだろう。例えば、悪意のある誰かのでっち上げの証言、届け出によって自分が逮捕勾留されたとする。でっち上げかどうかは逮捕され取り調べを受けている時点では自分しか分かっていないので、捜査機関に「それはでっち上げである」と当然訴える事になるだろう。言い換えれば容疑を否認することになる。人質司法が横行していると、容疑を否認すれば原則の23日よりも長く不当に長く勾留されることになる。不当に勾留が延長されると何が起こるのか?勾留を長引かせることで、自白を強要されかねない状況に陥る。精神的に追い込まれることで、実際にやっていなくても「やったと言わなければこの状況から逃れられない」と感じてしまう人が出てくる。これが、勾留からの解放と引き換えに自白を迫る、つまり人質司法と言われる理由だ。つまり人質司法は冤罪の温床という側面がある。

 このような指摘はこれまでも国内からは多くされていたし、一部海外からの指摘もあったが、これまで大きな変化はなかった。しかし日産だけでなくルノー・日産アライアンスという、世界有数の大企業体の会長が逮捕されたことで、同じ罪状を切り刻んで不当に勾留を長引かせる手法の、日本の人質司法への海外からの批判が高まった。
 それを勘案したのか、東京地裁は東京地検特捜部からの勾留延長の要請を却下し、その判断を不服とした準抗告も12/21に棄却した(朝日新聞の記事)。ようやく日本の裁判所が人質司法の問題に目を向けたかのようにも思えたが、東京地検特捜部は同じく12/21に、リーマンショックで生じた私的な投資の損失を日産に付け替えた会社法違反・特別背任の疑いで再びゴーン氏を逮捕した(中日新聞の記事)。「東京地検が逮捕した」と記事には書かれているが、逮捕状は捜査機関が裁判所に申請することで出される。つまり裁判所が逮捕を認めなければ現行犯以外での逮捕はできない。結局裁判所は人質司法の問題性を軽んじ、単に海外からの批判をかわす為だけに勾留延長を形式的に却下したように感じられた。なぜそのように感じられるのかと言えば、勾留延長却下後の別件での逮捕が適切ならば、地検は金融商品取引法違反の疑いでの勾留延長の申請などせずに、初めから会社法違反・特別背任の疑いで再逮捕すればよかっただけではないだろうか。そんな観点から自分には結局、逮捕拘束することが目的化してしまっているようにしか思えなかった。


 NHKの記事「法相 ゴーン前会長再逮捕に「批判は当たらないと考えている」」によると、この件について山下法相は「検察当局で捜査中の個別の事件なので、捜査や裁判所の個別判断について、所感を述べることは、差し控えたい」としつつ、 「今回の検察の対応については、国際的な批判もあると思うが、どう考えるか」という記者の質問に対して
 一般論として、容疑者の逮捕や勾留などは、刑事訴訟法の規定に従って司法判断を経ているので、適正に行われているものと承知していて、批判は当たらないと考えている
と述べたそうだ。


確かに、法務大臣が捜査中の事件に個別の認識を示せば、捜査や司法判断に影響を与えかねない、という話は理解出来る。しかし、ならば「一般論として」なんて前置きした上でのコメントもやめるべきではないのか。
 昨今政治家は責任逃れの常套文句として「-という誤解を与えた」などと言いがちだ。「一般論として」という前置きもその類の表現で、この場合「一般論」などと言いつつ、「ゴーン氏の件についてもその一般論を当て嵌めて考えて問題ない」という意図が透けて見える。つまり、そう発言することで捜査機関や裁判所の判断に問題はないということを暗に示したとも言え、「検察当局で捜査中の個別の事件なので、捜査や裁判所の個別判断について、所感を述べることは、差し控えたい」という前置きと明らかに矛盾する。しかしそう指摘しても「あくまで一般論として述べただけ」と言い逃れることが出来る、つまり「一般論として」も責任逃れの為の常套句だと強く感じる。

 この「一般論として」と前置きし、実質的に個人の所感・判断を述べる行為は官房長官の菅氏も良く用いる。本当に「コメントは差し控えるべき」と思っているなら、記者からどんなに質問を受けようがそれを貫くべきだし、答えるべき質問から「コメントを差し控える」などと逃げるのに、「一般論として」などと責任逃れが可能な前置きをしてコメントを表明する姿勢には誠実さが全く感じられない
 なぜ記者の中にそういうことを指摘するものがいないのかについても、自分はとても不思議に感じる。勿論責任逃れをされるだけの結果になることは容易に推測できるが、その責任逃れの姿勢を明確にする為の質問をするのも記者の役割なのではないか。そのような事が起きないのは、やはり記者クラブと行政が持ちつ持たれつの、実質的な癒着関係にあるからではないのか?と感じてしまう。

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