フリーライターの雨宮紫苑さんが「外国人の片言日本語を「おもしろい」と笑うべきではない」という見出しのブログ投稿をしている。自分はこれをハフポストが転載した記事 で読んだ。彼女の意図を自分がしっかりと汲めているのかは分からないが、とても乱暴にザックリと要約すれば、
母国語でない言葉を片言で話す外国人のそれは、ネイティブにとって時に面白く思えるかもしれないが、本人はいたって真面目なので笑ってはいけない。笑われた事がトラウマになる場合もあり得るという話だ。彼女が指摘する「笑い」とは、馬鹿にする意図が明確にある笑いに限定されておらず、たとえ悪意がなかったとしても笑うべきでない、というのが彼女の持論のようだ。
自分もこれまでに、些細なミス・勘違いを思いがけず笑われて不快に感じたことはある。真っ先に思いつくのは、外国人スポーツ選手やミュージシャン等の名前の発音についてだ。日本では、というか日本だけに限らないだろうが、外国人の名前について、母国の発音を尊重する場合の他に、英語読みが主流になる場合もある。どちらが主流になるかに関する明確な基準はなさそうで、例えば Joan はカタカナでは概ね「ホアン」と表記するが、ファン、ジョアン、ヨアンなどの場合もある。主に日本で流通している発音・表記が必ずしも他地域で主流とは限らず、本人が本名と認識している発音と異なっているなんてことも良くある。また、国内外での相違に限らず、国内でも方言などによって表現の地域差はあるし、言語表現に限らず風習の違いなどもあり、思いがけず笑われてしまう事はしばしばある。
そんな視点で考えれば彼女の話は共感できる部分も多い。しかしそれでも自分は
「外国人の片言日本語を「おもしろい」と笑うべきではない」は少し言い過ぎではないのか?と思ってしまう。確かに他人の勘違いや失敗を馬鹿にして嘲笑するような笑い方は褒められないし、そんな笑い方をするべきではないという点では共感する。しかし、彼女の話は「悪意が無くても兎に角笑うべきでない」というニュアンスなので、「一切笑うな」では、それもまた息苦しいコミュニケーションになってしまう為、言い過ぎのように感じられた。コミュニケーションの中で、自分が見慣れないもの・ことに遭遇した時に悪意なく滑稽に感じ、面白いと思い、笑いが漏れることは、そんなに軽蔑するべき事とは思えない。確かに彼女が言うように、その笑いが不快に感じられる場合もあるだろうが、だから一切笑うなと思っている人と密なコミュニケーションをしようと思う人は少ないのではないか。配慮が必要なのはお互い様であって、一切笑うなというのもまた配慮に欠けていると自分は感じる。
彼女がなぜこのように感じてこの投稿を書いたのかを自分なりに想像してみた。自分はこの些細な笑いを恐れる・不快に感じてしまう感覚は、ある種の打たれ弱さだと言えると思う。彼女も認めているように、そんなの気にならないという人もいっぱいいる。決して見下すつもりはないが、気にならない人に比べたら、気になってしまう人は「繊細」、悪意がない笑いだと分かっても不快に感じるということは、場合によっては「繊細過ぎる」「打たれ弱い」と言えるのではないか。
この種の打たれ弱さがなぜ生じるのか、勿論生まれながらの性質も少なからず影響するだろうが、日本の教育現場には(日本に限った話ではないかもしれないが)、
間違う事=恥ずかしい事のような風潮が確実にあり、子どもの頃から過度に失敗を避けるように仕向けられるからなのではないか?と考える。口では「間違ってもいい、思った事を言ってみろ」と言うくせに、自分が想定していた答えが返ってくると怒る先生や大人は思った以上に多い。考え足らずで同じ間違いを何度も繰り返した結果、間違った答えを出したなら怒られても仕方がないが、こちらが自分なりに考えて出した答えを頭ごなしに否定され続ければ、間違う事=恥ずかしい事という感覚が刷り込まれてしまう。
しかし、勿論してはならない失敗というのは確実に存在するが、人生なんて失敗の連続だ。失敗を恐れず挑戦するから成功しなくてもノウハウが溜まり将来の成功に繋がる。つまり失敗は成功の元であって、失敗をあまりにもネガティブ視すれば、何もすることは出来なくなる。些細な失敗でいちいちつまづく事は確実に好ましい状態でない。
雨宮さんの話も決して分からなくもないが、自分が発した言葉がどういう風に聞こえるのかが、相手の「笑う」という反応から分かると考えたらいいのではないだろうか。失敗をネガティブに捉え過ぎるから全ての笑いが嘲笑に聞こえてしまうのではないか。自分は、時には恥ずかしいと感じる事も必要だと思う。恥ずかしいと思うからこそ印象に強く残るだろうし、印象に残るからこそ上手にその言葉を使いたい、的確に理解したいという思いがより促進される側面もあると思う。相手に悪意がないことが理解できるのなら、それ程嫌悪感を示す必要はないと考える。
彼女も片言の表現はある意味での個性にもなり得ることは認めているのだから、笑われると受け止めず笑いを誘ったとポジティブに捉えた方が、自分にとっても相手にとっても良い結果に繋がるのではないだろうか。