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学校教育を見直す事の必要性


 国連の子どもの権利条約委員会が、日本の学校で行われている組体操の危険性を審査の対象にした、と1/12に共同通信などが報じていた。組体操という表現がされているが、組体操にもいくつかの種類があり、近年危険性が主に指摘されているのは、生徒らが階段状に折り重なって作る所謂人間ピラミッドだ。自分が学生の頃は小学生で3段、高校生でも5段程度、しかも奥行きのないピラミッド状の壁を作る演目だったが、この10年くらいの間に行われていたのは、段数も更に多く奥行きもある、規模がエスカレートした立体的なもののようだ。
 自分達の頃だって顔と肘やひざがぶつかって鼻血を出している者もいたし、最下段の者は主さのあまり地面の石が食い込んで、足を切って血を出すなんてことはあったが、自分の知る限りでは骨折等深刻な怪我をしたという話は聞いたことがなかった。勿論自分の周りになかっただけ、報道されていなかっただけで当時から深刻な怪我があったのかもしれない。当時の規模は良くて今の規模はダメという話ではないが、例えば10段で立体的なピラミッドを作ったら、最下段の中央の者には想像以上に負荷がかかり、最後に一斉に崩す際には怪我をしかねない・死を予感する程の圧力がかかるだろうなと推測できる。


 組体操のピラミッドに関しては、既に5年以上前からしばしば危険性・被害が指摘され、 文科大臣が事故防止措置の実施に言及したり、各教委で規制を設ける等の動きが既にある。しかし一方で未だに「達成感を感じさせたい」「保護者の期待」などを根拠とした肯定論が示されたり、実際に実施して事故が起こったというような事もまだまだ報じられる状況にある。
 自分が学生の頃は、組体操同様に運動会の演目として行われていた競技・棒倒しの危険性が指摘され、実施するべきか否かという話があった。確かに棒倒しも場合によっては怪我人が出かねない競技だ。徒競走等に比べたら確実に事故率は高いだろう。また騎馬戦だって、棒倒しに比べたら危険性は低いかもしれないが深刻な怪我が起きる恐れは確実にある。しかし今でも騎馬戦に対する強い批判は殆ど耳にしない。組体操のピラミッドに関しても、組体操のピラミッドや組体操自体が危険なのではなく、肥大化し過ぎた組体操のピラミッドが危険なのであって、つまりどこで線引きをするかの問題ではないだろうか。

 余談だが、学校体育で行われる武道に関しても危険性がしばしば指摘される。学校教育の中で行われる武道は主に剣道と柔道だが、剣道に関しては学校教育の中では基本的に禁じ手とされる突きを、生徒がふざけて行って深刻な怪我に繋がるケース、柔道では充分な受け身の技術がないままに技の練習や、試合形式の授業を行い、受け身が取れずに主に頭部を強打してしまい深刻な怪我に繋がるケースが指摘される。自分も柔道の授業の中で受け身を取り切れずに頭を畳みに強打し、脳震盪を起こして病院に運ばれた経験がある。学校体育は、運動が得意でない者も参加するという事を考えれば、柔道や剣道をさせるのにはやや無理があるのかな?と個人的には思うものの、それでも教育に武道を取り入れたいのであれば、体育とは別に武道の時間を設けて半年から1年間程度の長めの期間をかけて競技に取り組むなどの方法で、充分な技能を身につけさせればその無理を解消することも出来るかも?とも思う。

 ハフポストは「「運動会の巨大ピラミッドに拍手する日本の人権意識はおかしい」 憲法学者・木村草太さんに聞く"子どもの守り方"」という記事を1/19に掲載した。恐らく冒頭で示した国連が審査という件も記事を掲載した背景にあるのだろうが、見出しに据えられている組体操のピラミッドに限らず、子供の人権全般について木村 草太さんが論じる内容の記事だ。
 記事の概要には概ね賛同できるのだが、彼の主張の内の一つ、
子どもたちに無理やり掃除をさせることは、意に反する苦役からの自由(憲法18条)に反しているという認識から始めないといけない。もちろん、掃除当番は、意に反する苦役ではなく、教育の一環として掃除を教えるのだから合憲のはずだという主張もありうるでしょう。しかしそれなら、(きちんと学習効果があるかどうか)『ほうきのはき方のテスト』もしないといけない。必須の道具である掃除機やルンバの使い方を教えないといけないはずですが、そのようなことは教えないでしょう。学校の雑用として掃除をさせるなら、憲法に抵触するかもしれないという緊張感が必要です」
にはある種の違和感を覚えた。太字化した部分だけに注目すれば、彼は「子どもに教室等の掃除をさせることは憲法に抵触する恐れがある」と言っているように見えるだろう。見えるだろう、と言うか実際にそう言っているのだが、一応その後に”どんな場合に”という条件が付け加えられており、子どもに教室等の掃除をさせることは、直ちに・無条件に憲法違反に該当するとは言っていない。ただ彼は「学校の雑用として掃除をさせるなら、憲法に抵触するかもしれないという緊張感が必要」とも言っており、個人的には掃除が雑用だったとしても、自分達が使う教室・施設を自分達で掃除しようという教育は、させていることが雑用だったとしても、憲法違反に当たる恐れがあるという話には無理があると思え、これには共感することが出来ない。

 しかし、学校の掃除に関して言えば、自分は学生の頃「先生らも自分達生徒と同様、職場として教室や学校施設を利用しているのに、なぜ生徒にやらせるだけで自分達は掃除に参加しないのか」と感じていた。小学校などでは、生徒だけではできない事も多く、例えば大掃除の際の教室や廊下のワックスがけ等、先生だけがやる掃除というのもそれなりにあり、また小学校ではやり方の手本を示す為に先生もしばしば掃除に参加、というか寧ろ率先して行う場面も多く、それ程そのような感覚を抱くことはなかったが、小学校でも高学年になるにつれ、中学校や高校では殆ど、先生は指示・命令だけをする立場になり、掃除に参加する先生は殆どおらず、そんな気持ちが強くなった。
 そんな風に考えれば、生徒同様教室や学校の施設を使用しているのに、教員が指示・命令するだけで掃除に参加しないようであれば、木村さんの言うように「子どもたちに無理矢理掃除をさせる事」に該当し、憲法に抵触する恐れも出てくるかもしれないとも思える。つまり木村さんの主張には賛同しかねるものの、学校の掃除に関しては、子どもらがある種の理不尽さを感じたり、立場が優位な者が立場が不利な者へ面倒な事を押し付けている、押し付けてもよいのような感覚を無意識の内に与えてしまっている恐れがあるのかもしれないとも感じる。このような感覚を長年与え続けてしまう事は、ブラック労働環境やいじめ・パワハラにも繋がる恐れがありそうだ。

 ただ学校の先生の立場で考えてみると、ただでさえ多かった教員の役割・責任は以前にも増して増大しており、掃除は生徒に任せて別の事に時間を割かなければ現場を回せないという側面もあるだろうし、掃除以外の部分で生徒はやらない学校に対する貢献をしているのに、掃除の部分だけを切り取って公平ではないと言われたら心外だと思うだろう事なども想像は出来る。確かにその通りで、そう考えれば、生徒にだけ掃除をさせ、先生が掃除に参加しない事が必ずしも不公平であるとは言い切れないかもしれない。
 しかしそれが生徒に伝わらなければ、生徒が「立場が優位な者が立場が不利な者へ面倒な事を押し付けてもよい」という感覚を持ちかねないことには変わりはない。また、どう考えてもそのような認識で生徒に接しているとしか思えない教員も、自分が知るだけでも少なからず存在していた。本人は確実に「そんな意図はない」と言うだろうが、意図があるかないかよりも生徒や周囲がどう感じるかの方が重要ではないだろうか。そのような感覚は確実に負の連鎖を生んでいる。それは現在の日本の社会的な諸問題を見れば明らかだ。大人になってからは当然の事、生徒の間でだって優位な立場の者が不利な立場の者に不利益を押し付ける行為、簡単に言えばいじめが起きている。また大人の世界ではパワハラと呼ばれるが、パワハラは大人のいじめに他ならない。

 この清掃の話に限らず、学校教育の場で当たり前とされていることが、実はいくつかの社会問題と関連していると思えてならない。全員が全員画一的に着る事を強要される制服や、過剰な身だしなみの強制は、その枠から少しでもはみ出す事を許さない風潮、つまり少数派を少数派というだけで排除・弾圧しがちな風潮(例えば外国人・在日朝鮮人への差別や性的少数者や刺青・ヒゲなどへの偏見)の温床だろうし、皆勤を評価・表彰する事は、「風邪ぐらいで休むな」「親が死んだくらいで休めると思うな」なんて非人間的な労働環境を強いる風潮に繋がっているとも思う。勿論それらにもメリットはあるだろうが、そろそろメリットだけを強調しデメリットから目を逸らす事を止め、抜本的に学校教育を見直すべきタイミングにきているのではないだろうか。

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