誰かが警察に逮捕されたとしても、その時点では犯人とは報道されない。犯人とは罪を「犯した人」であり、逮捕されただけでは罪を犯した事は確定しておらず、犯人と断定することが出来ない。断定的に犯人と報じると、万が一冤罪だった際に大きな不利益を与えかねないからだ。だから報道では逮捕されただけの人の事を容疑者と呼称する。本来の法律用語では被疑者なのだそうだが、被害を受けた側「被害者」と呼称する為、被害を与えた疑いをかけられた者「被疑者」の音とよく似ており、聞き間違える恐れがあるという観点から、放送業界では容疑者という表現を用いるのが一般化したそうだ。
ただその呼称だけで充分な配慮がなされた報道とは言い切れない。全体的に見れば相応の配慮がされた報道の方が多いが、中には容疑者という言葉を使っているものの、起訴すらされていない状況にもかかわらず、あからさまに対象を犯人扱いしているとしか言いようがないような報道をしばしば見かける。特に所謂ニュース番組でないワイドショー的な番組にその傾向があるように思える。
判決が確定する前でも起訴される前であっても、容疑者が大筋で容疑を認めている場合に限れば、そんなスタンスの報道もそれ程問題ではないのかもしれないが、警察や検察の不当な捜査・自白の強要などによって、容疑者が意に反して容疑を認めるという恐れはどんな場合にもあり得ない事ではない。一度容疑を認めた容疑者がその後それを覆し、不当な捜査の結果容疑を認めさせられたことが発覚し、無罪判決が出るなんてことが全くないわけではない。つまりどんな場合であっても細心の注意を払って報道をしなくてはならない事は変わらない。
この判決確定前どころか起訴確定前から容疑者を犯人扱いする傾向は、警察や検察に対して性善性を過度に期待することから生じるのだろう。報道の影響でそうなっているのか、逆に一般に存在するその傾向が反映された報道になっているのかは定かでないが、「警察が捜査・逮捕したのだから悪人に間違いない」と捉える人が一定数いるのは紛れもない事実だ。実際はその両方が互いに影響を与え合っているのだろう。
数日前からTポイントカードを展開するカルチュア・コンビニエンス・クラブが、会員情報などを裁判所の令状なしに捜査当局に提供していたことが注目されている。規約にそれに関する条項がないから問題があるとは言えないという見解を示す人もいる。Tポイントカードは元々はレンタルビデオ店・ツタヤの会員カードだったが、現在は100社以上の提携企業のポイントカードとして、実社会だけでなくネット上も含めて商品購入の際に使えるポイントを貯めることが出来るものになっており、つまりこれには電話番号や住所・性別・年齢等会員の基本的な個人情報だけでなく、会員にどんな消費行動の傾向があるのかという趣味や嗜好、更には実店舗の利用履歴を辿れば行動パターンまで分かるありとあらゆる個人情報が含まれている。そんな重要なものを裁判所の判断・令状もなしに企業が捜査機関に提供していた、捜査機関が提出を求めたということには驚かされる。
例えばアダルトビデオのレンタル履歴などを、警察が痴漢事件の捜査過程で調べることがある。痴漢冤罪事件を描いた映画「それでもボクはやってない」などでも描かれているように、痴漢の動機があったかどうかを示す証拠としてそれは用いられる。自分は痴漢をしたことはないが、痴漢もののアダルトビデオを見たことはあるし、レイプをしたことはないがレイプもののアダルトビデオも見たことはある。それらを見ただけで捜査の対象にされてはたまらないが、裁判所の判断なく会員情報が提供されてしまえば、そんなことにもなりかねない。
更に言えば、見た映画や買った本・図書館で借りた本の履歴などによって、その人の思想や政治的な信条を推測することも出来る。そんな情報を裁判所の判断もなしに捜査機関に提供されたら、国家権力が不当な弾圧をする際の恣意的な判断の材料にされてしまう恐れが生じる。直ちにそんな戦前の日本や現在の中国のような状況になるとは言えないが、令状なしの個人情報収集を捜査機関が始めていたという事はその第一歩の恐れがある。
Tポイントカードが矢面に立たされているが、ITmediaの記事「「Tカード情報、令状なく提供」報道が波紋 「Ponta」「dポイント」の対応状況は?」 によると、ライバルのポイントカード会社も同じ様な傾向のようだ。こんな状況では政府が推進するマイナンバーカードにもキャッシュレス・決済電子化にも大きな不安を感じざるを得ない。
Tポイントカードの件は今朝のMXテレビ・モーニングCROSSでも取り上げていたのだが、画面に表示されたそれに対する視聴者ツイートの中に、前段で触れた「警察が捜査・逮捕したのだから悪人に間違いない」的な発想の、
というツイートがあった。警察が捜査を始めた時点で、警察にはよっぽどの事、つまり見過ごせない恐れがあるという認識は確実にあるはずだ。でなければ捜査を始めないだろう。しかし警察官だって人間なので、警察や検察が深刻な冤罪被害を生じさせる恐れがないわけではない。つまり警察は常に正しい認識をする、正しい判断を下すとは決して言いきれない。そのような冤罪を未然に防ぐ為に、警察が「よっぽどの事」だと言っている事が果たして妥当かを、警察や検察以外の組織でも判断をする必要がある。だから現行犯以外の逮捕には裁判所が発行する逮捕令状が必要だし、強制的な捜査を行うにも捜査令状が必要になる。つまり警察や検察が暴走しないようにする為に、裁判所がチェックを行い令状を発行するという規則が存在する。簡単に言えば「よっぽどの事」かどうかは警察だけで判断してはならないし、一般市民も警察の判断だけで対象を犯罪者扱い・有罪推定してはならない。ケーサツが情報取得する人って、よっぽどのことだと思うけど… #クロス— mimiera (@mimiera05_31) 2019年1月22日
しかも、カルロス ゴーン容疑者の保釈に関する裁判所の判断等にも象徴されるように、日本の裁判所は警察や検察・政府など国家権力の言い分に偏った判断を下しがちだ。裁判所が適切な判断に基づいて令状を発行しているかにもやや疑問がある。そんな状況にも関わらず、そのように儀礼化している懸念すらある「令状を請求する・発行してもらう」という手順をも省いた捜査機関が、果たして適切な判断を下せると言えるだろうか。そのような視点に立てば、警察が「よっぽどの事」だと言っていてもそれを鵜呑みにすることなど到底出来ないのではないか。
捜査機関の性善性を過度に期待してしまう人というのは、考える事、情報の信憑性を一旦立ち止まって吟味する事を怠る傾向にあると言えるだろう。つまりネット上の未確認・不確定情報等にも踊らされやすい傾向にあるように思う。また、企業や政治家などの甘言にも騙されやすい人達と言えるのではないだろうか。「警察が捜査・逮捕したのだから悪人に間違いない」などと軽々しく言ってしまう人には、松本サリン事件や2012年の遠隔操作ウイルス事件において捜査機関がどんなに深刻な間違いを犯したか、警察発表を基にメディアがどのように報じたかを是非調べてみて欲しい。
オレオレ詐欺などによる被害が、こんなに啓蒙活動がなされてもなくならないことを考えると、与えられた情報・触れた情報を、一旦立ち止まって考えずに鵜呑みにしてしまう人というのは、どうやっても一定数存在し解消は難しいようにも思える。ただ、そんな傾向がある人の中には騙される側になるだけでなく、鵜呑みにした適切でない情報に基づいて他者を不当に攻撃してしまうような、つまりヘイトスピーチ・誹謗中傷に走ったり、そこまでではなくとも極端で偏った考えを持つようになる人もいるのではないか。付け加えておけば、そのような傾向の人はカルトにハマる恐れも持ち合わせていると言えそうだ。
与えられた・触れた情報を鵜呑みにするのは、どんな場合でも危険性を伴う行為に他ならない。