ハフポスト/朝日新聞は、サッカーのドイツ女子2部リーグのSVメッペンでプロ選手としてプレーする下山田 志帆さんを取り上げた記事「「絶対に仲間はいる」性的指向を公表したアスリートは、当事者が発信する言葉のパワーを信じる(朝日新聞版の見出しは「「絶対に仲間はいる」性的指向公表したアスリートの思い」)」を3/23に掲載した。
下山田さんは恋愛対象が同性のようで、記事では、LGBTアスリートへの理解がなかなか進まない日本で、まずは当事者を知って欲しいとの思いから、下山田さんが自身の性的指向をカミングアウトしたことを紹介している。記事の見出しは、
東京五輪をきっかけにLGBTのスポーツ参加を進めようというが、当事者の姿が見えない。当事者が発信するメッセージにはパワーがあると思うなどの、下山田さんの言葉からの引用だ。
今は見えないかもしれないけれど、絶対に仲間はいる。仲間と気持ちを分かち合うと、スポーツはもっと楽しくなる
つい数年前までは、同性愛関連の、コメント可能なネット記事には、十中八九「同性愛は性的倒錯、変態性愛」のような主張が見られたし、SNS上でもそのような主張をしばしば目にしたが、昨今、その手のあまりにも乱暴で短絡的な偏見を目にする機会は確実に減った。勿論それでも「同性愛者は権利を主張し過ぎ」のような、異性愛者が既得権を持っていることを無視して、同性愛者が権利を主張することを揶揄する・非難する・卑下するような、偏見・差別的な主張をする者はまだまだいるが、それでもこの数年、当事者らが声を挙げたり、同性愛や非異性愛に関する正しい情報を紹介する報道が増えたこともあり、「同性愛は総じて性的倒錯、変態性愛」のような馬鹿げた主張をする者は確実に減った。
一応補足しておくと、性的倒錯・変態性愛と言えるかどうかは別として、同性愛者の中に性に奔放な者 ”も” いるのは事実だ。しかし、異性愛者にだってナンパしまくったり、誰とでも簡単に体を交わすような者はいる。勿論男女共に。また、異性との性交ではなく痴漢行為や幼児・未成年者、異性の下着等にしか興味を示さないような、ある意味特殊な性的嗜好を持つものは異性愛者にもそれなりにいる。つまり、異性愛者にだって世間一般では倒錯しているとされてしまうような性的嗜好を持つ者や、変態性愛と言われるてしまうような者は確実にいる。要するに、同性愛=性的倒錯・変態性愛というのは全くの偏見である。
話を戻すと、日本でもLGBT等への理解は、少しずつではあるが、一応前進が見られると言っていいだろう。下山田さんのように「声を上げる」ことには確実に意味がある。宝くじは買わないと当選確率はゼロなのと同じ様に、声を挙げなければ確実に状況は改善しないが、声を挙げれば、状況が改善する可能性が生じる。勿論それぞれの状況によって「声を上げる」事で差別や偏見に晒されるリスクが生じることもあるだろうから、それを強制することはできないのは大前提だ。
LGBTやその枠に当てはまらない同性愛者及び非異性愛者は、2018年の調査によると人口のおよそ8.9%程度存在するそうだ(ハフポストの記事)。2012年の調査結果が5.2%、2015年は7.6%だった事を勘案すると、差別や偏見に晒されることを恐れ、調査やアンケートにすら本当の事を言わない同性愛及び非異性愛者がまだまだいる可能性もある。8.9%がどのくらいの割合かと言えば、およそ11人に1人の割合だ。学校の1クラスが30人であれば、2-3人の同性愛者及び非異性愛者がいることになる。11人に1人と言えば、少数派ではないようにも思えるが、30人に2-3人と言われるとやはり少数派であることが実感できるだろう。
前段で下山田さんのような「声を上げる」行為について、それは少数派の置かれた不利な状況を適正化するのには確実に必要だとした。また、記事の見出しにもなっている、
今は見えないかもしれないけれど、絶対に仲間はいる。仲間と気持ちを分かち合うと、スポーツはもっと楽しくなるについても、 下山田さんの言う通りだと思う。現在は、以前は存在しなかったネットやSNSのおかげで、少数派であってもお互いが見つけやすくなっており、ネットが普及する以前と比較すれば、各段に孤独感に苛まれる確率は下がっているだろう。下山田さんはそんな現在の状況を加味した上でこの台詞を述べたのだろうと想像する。
しかし一方で、それは危惧する必要がある状況でもあると自分は考える。ネットが普及する以前から、同性愛への差別や偏見に限らず、国籍・民族性・出自・人種・性別等に関する差別を行う者、偏見を持つ者というのは少なからず存在していた。もしかしたら現在よりも、その種の人の割合は多かったかもしれない。しかし、少なくとも戦後の日本においては、基本的にそのような差別や偏見は不適切とされ、そのような感覚を持つ者であってもあからさまに差別を行うようなことや、偏見を堂々と主張するような事はそれ程多くなかった。何故なら、そのような行為には、白い目で見られたり、場合によっては職を失うことにもなりかねないというリスクがあったからだろう。
つまりネットが普及する以前から、同性愛者などと同様に、あからさまに差別を行い偏見に満ちた主張を行う者も確実に少数派だった。表立って差別や偏見を主張する者はそれ程多くはなかった。ネット普及以前は、差別や偏見を堂々と主張することに相応のリスクがあり、また少数派なので似たような考えの者が集まることも容易ではなかったからだろう。
しかし、ネットとSNSの普及によって他の少数派同様に、差別や偏見を厭わない者らもネットでお互いを探しやすくなり、彼らも「絶対に仲間はいる」ということに気付いた。お互いに差別や偏見の正当化を擁護し合える環境を得た。更にネットには顔や名前を公にせずに主張を出来るという特性もあり、差別や偏見を堂々と主張しても、それまでは直ちに生じていた、白い目で見られる・職を失うといったリスクに晒されづらくなった為、現在のネットやSNSに所謂ヘイトスピーチが相応に蔓延しているという状況になっているのだろう。
この数日間、 世田谷事務所長の葛西 幸久氏がツイッターの匿名アカウントで、特定の国会議員や著名人の名前をあげて「売国奴」「反日」などとしたり、近隣諸国などの国籍を中傷する書き込みを繰り返していたことが話題になっている(ハフポストの記事)。彼だけをやり玉に挙げても何も解決しないのも事実だが、だからといってそのような行為が許されるわけではない。ただ、彼の様な者をやり玉に挙げるだけでなく、同じ様な主張を繰り返していてる百田 尚樹や高須 克弥、その他同様の傾向の主張をする著名で影響力のあるSNSアカウントなどへの対処は確実に必要だ。個人的には遮断という対処自体が好ましくないと考えるが、著作権絡みでのネット遮断を検討するのであれば、少なくとも事実に基づかない主張を繰り返す者のネット遮断の方を先に検討するべきだ。
ネットやSNSに限らず、どんな道具・システムでも同じことだが、ポジティブな面もあれば、確実にネガティブな面も存在する。包丁は料理に欠かせない便利な道具だが、凶器として用いれば人を殺す事も出来る。言語による表現というのは、表現の自由・言論の自由を大義名分に、どんな表現でも正当化できると勘違いしている者も多い。しかし、所持使用自体は合法である包丁も、他人を傷つけるのに用いる事が許されないのと同様に、言語による表現も他人の権利を犯すことに用いてはならない。
下山田さんの「絶対に仲間はいる」という主張も、その裏には前述のような危険性を孕んでいることを、そのポジティブな意味と同時に理解しておく必要があるだろう。