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無駄=悪、という価値観は必ずしも正しいとは言えない


 朝日新聞が4/11に「大学入学式、スーツ黒一色の謎 減点嫌う社会を反映?」という記事を掲載した。記事では今年の早稲田大学と明治大学の入学式の写真を掲載している。タイトルの通り、そこに映っているのはまるで制服かのように黒いスーツ一色の新入生たちだ。真相は定かでないが、自分にはこの記事が掲載された背景にはある一つのツイートがあると感じている。それはこのツイートだ。

 このツイートは大きな注目を浴び、自分のフォロワーの何人かも反応を示しており、自分のタイムラインにも複数回流れてきた。このツイートがされたのは2019年4/4だが、転載されている写真の記事は2010年の記事である。まず、何新聞の何という記事の画像なのか、いつの記事なのかについて全く当該ツイートに掲載がなく、明らかに引用とはいえない転載で、恐らく元記事を2010年に書いた日経新聞の許可も得ていないのだろうから、まずその不適切さを指摘したい。転載が意図的であるか否かに関係なく、せめて引用元ぐらいは掲載するべきだ。
 少し検索すると、当該日経新聞記事に触れている、2012年に書かれた「JAL入社式から見える時代の変化」というブログ投稿が見つかる。恐らくその記事の画像をわざわざトリミングしているであろうと考えると、意図的に無断転載しているのだろう。それはツイッターに文字数制限があっても許されるべきでなく。最低でも日経新聞の記事からの引用であることは明記すべきだ。


 話を画一的な黒っぽいスーツの話に戻そう。当該記事を書いた朝日新聞の記者は、前述のツイートが注目を浴びているのを見て、既に企業入社式は軒並み終わっているが、大学の入学式でも似たような傾向だろうと考え、取材し記事化したのだろう。
 憲法学者の木村 草太さんはその記事を引用し、
とツイートしていた。明示していないものの、現在の日本の多くの学校に見られる、学校や教員、親などが考える画一的な学生らしさを押し付けるだけの理不尽な校則や制服、そして学生だけでなく親にも、本来任意な筈のPTAの加入が画一的に押し付けられる状況、学生やその親だけでなく、一般的に画一的な○○らしさが押し付けられがちな社会全般の風潮などを勘案したツイートなのだと自分には感じられた。
 この木村さんのツイートに対して、
といリプライがあったのだが、木村さんはそれについて
とコメントを付けてリツイートしている。前述した自分が感じたニュアンスは、それ程的外れではないと感じられた。


 この一連のやり取りを見ていて自分は、
 個性を殺す、売り渡す儀式のように見えてしまうので、この黒っぽいスーツの集団を見ているとどうも葬式を連想してしまう。日本での就職活動も同じで個性を殺す、売り渡す活動のように見えてくる。
と感じたのだが、同じように「お葬式みたい。」とリプライしている人がいた。そのリプライに対して、
と更に反応している人がいた。
 リクルートスーツとして、そして冠婚葬祭にも流用できるから、毎日スーツを着るわけではない学生が合理性を考えて黒っぽいスーツを選んでおり、だから入学式が黒一色になるという話が全く検討違いだとは自分も思わない。そもそも入学式・入社式だって広義での冠婚葬祭的な儀式だろうから、だから礼服、若しくはそれに準ずる服装で参加しているという風に受け止められなくもない。
 しかし考えてみて欲しい。黒っぽいスーツは冠婚葬祭用を兼ねている、入学式・入社式を冠婚葬祭的な儀式という風に解釈するのだとしたら、入社式・入社式は祝いの場だろうから、本来は葬式ではなく結婚式を連想するはずだ。なのに何故自分や「お葬式みたい」とリプライした人には結婚式でなく葬式に見えたのだろうか。それはやはりその光景が個性を殺す、売り渡す儀式のように見えたからだろう。

 前述のツイートの中に、
主体性絡みの論評が目立つが、私は単純に家計の都合と捉えている。
入学式用にスーツを買う際に、3年後にリクルートスーツとして使える黒を選ぶのは極めて合理的な判断だ。
今の若者は無駄な買い物をしない
という主張がある。まず「単純に家計の都合」だが、それこそが今の日本社会の問題なのだろう。それはつまり学生や学生を持つ家庭の余裕のなさの象徴だ。入学式用の衣装を殆ど全ての学生・家庭が切り詰めなくてはならないような状態なのだとしたら、その経済的な余裕のなさこそ憂慮するべき事態だ。日本の大企業は史上最大の利益を上げ、内部留保も最大なのに、何故か日本の有名な大学の新入生が軒並み入学式用の衣装すら切り詰めなくてはならない状況なのだとしたら、こんなにおかしなことはない。
 また、リクルートスーツや冠婚葬祭用を兼ねた選択で合理的・無駄な買い物をしない、という肯定的評価にも違和感を覚える。大学とは本来は経済的合理性を追求するような場所ではない。 昨年、「大学予算配分の選択と集中」という政府や文科省の方針に各所で異論が挙がった。役に立つ研究だけに集中的に予算をつけ、役に立たない研究とされると予算が削られるということの弊害・危険性、役に立つかどうかの判断の曖昧さ、全ての役に立つ研究もスタート時点では役に立つかどうか定かではなかったことなどが指摘された。
 何が言いたいのかと言えば、大学に入る前から経済的合理性を追求することには大きな弊害があるだろう。無駄と思えるような事をやってみることで初めて気付けることもあるし、思いがけない発見があるかもしれない。しかも、黒いスーツ一色になるのが画一的な教育の弊害ではなく、単に家計の都合によるものならば、学生や新入社員は自らの判断で合理的な判断をしているのではなく、無駄な買い物をする余裕がなく、つまり他に選択肢がないからそのような選択をせざるを得ない状況になっているのであって、それは他の場面でも同様だろうから、 彼らは金銭的な理由によって幾つもの可能性を閉ざされているとも言えるだろう。


 家族が出来て子どもを育てる立場になれば、嫌でも経済合理性を重視した判断を下し、無駄な買い物を切り詰め、自分のやりたいことのいくつかを諦めなければならなくなるのに、同じ様なことが大学生・新入社員の時点で強いられるようなら、新鮮な発想も新たな気付きも発見も、その機会は大幅に減ることになるだろう。
 つまり若い内はどんどん無駄な事をするべきだと大人が言えないような社会の将来は暗いとしか言えない。合理的な判断・無駄な買い物をしないといえば耳障りはいいが、そのマインドはデフレスパイラルの入り口でもあるように思う。バブル崩壊後に合理性と安さを求めた結果が今の日本の現状であるということも、決して忘れてはいけない。

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