スキップしてメイン コンテンツに移動
 

「熱中症対策の強化」とは


 「開会式、あいさつは4人→1人に 高校野球の熱中症対策」。ハフポスト/朝日新聞が6/26に掲載した記事の見出しである。見出し通りの内容で、夏の甲子園の予選・秋田県大会で、
  • 開会式途中で給水時間を設ける
  • 開会式の主催者らのあいさつを一部とりやめる
  • 球場のベンチに扇風機を設置し、試合中に回す
  • 野球部員や応援生徒らに対して、十分な睡眠時間の確保など基本的な生活習慣の徹底を呼びかける
  • 場内アナウンスや電光掲示板で注意喚起する
熱中症対策の強化が図られているという内容の記事だ。
 この記事を作った朝日新聞と取材を受けている秋田県高野連は大会の主催者でもある。つまり主催者が主催者を取材した記事で、そんな意味では、この記事は記事というよりも広告的な側面もある。勿論秋田県大会だけでなく、夏の甲子園自体も朝日新聞社と日本高等学校野球連盟が主催者だ。


 率直に言って「焼石に水」レベルのことで「熱中症対策の強化」だなんて、「やってますアピール」するのは止めてもらいたい。熱中症対策の強化を謳うのなら、オリンピックのマラソン同様に、気温が比較的低い朝5時から10時、夕方5時から8時頃に試合を行うなどの対応が必要なのではないか。「朝早くからは…」という声もあるだろうが、草野球では早朝野球も珍しくない。問題になるのは選手の移動手段だが、それは主催者が手配するなり父母に協力を求めるなりすれば賄えないこともなさそうだ。また、プロ野球が夏季でも試合が出来るのは試合の多くがナイトゲームだからだろう。兎に角炎天下で試合をしない方向にする事こそが「抜本的な熱中症対策の強化」の筈だ。
 というか、甲子園に限らず夏休み期間中・猛暑の中で運動の大会を今後も続けようというのが果たして妥当な選択なのだろうか。次のサッカー・ワールドカップ 2022年大会は中東・カタールで行われる。サッカーのワールドカップは1930年の初回以来、一貫して5-7月の初夏に開催されてきた。この時期はプロサッカーのオフシーズンでもある。しかし、次のカタール大会は11-12月に行われる。その理由は、Wikipeia:2022 FIFAワールドカップによれば、
 カタールを含む中東地域は夏の暑さが厳しく選手の体に与える負担が大きいこと、同地は冬季(1月)でも温暖な気候でありサッカーの試合の開催に支障がない
ということを勘案したからだそう。 夏季の気温が上昇しているのだから、それに合わせた開催時期自体の変更を検討する必要もありそうだが、東京オリンピックに関しては少なからずそのような議論があるのに、高校野球やインターハイ・夏季の部活動に関してそうような議論がなされているという話すら聞こえてこないのは一体なぜなのか。


 甲子園と熱中症対策に関しては、昨年・2018年8/6に「消された「日中の運動は控える」という注意喚起」という投稿を書いた。昨年に限らず近年夏季の気温が上昇しており、2011年に「高温注意報」が設定された。Wikipeia:高温注意報によると、気温35度以上・猛暑日が予想された場合、気象庁Webサイト・NHK・民放・新聞などを利用して、高温注意情報を発表し熱中症に対する備えを呼びかけるという決まりのようだ。NHKでは、猛暑日が予想された場合なのか、猛暑日・35度を記録した地域があったらなのか、どんな基準なのか正確には分からないが、気温が上昇した日の正午前後には、地震や台風情報同様に、画面にL型の縁を付けて注意喚起が行われている。


 この画像は2018年8/6の投稿にも用いたもので、1枚目が夏の甲子園大会開催前日、2枚目は甲子園大会初日にキャプチャした。NHKは甲子園開催前日まで熱中症対策の注意喚起として、「日中の運動は控える」と呼びかけていたにもかかわらず、甲子園大会が始まるとその文言を「涼しい服装で日傘や防止の使用」に差し替えた。左側の帯も、大会前は「熱中症に警戒」、大会が始まると「熱中症に ”厳重” 警戒」となっているのに、運動は控えるという文言がなくなったのは矛盾しているように見える。厳重警戒の方が文字サイズが小さいのもどこかちぐはぐだ。2018年8/6の投稿では、差し替えられたのはその部分だけで、前後の文言には差がないことが確認できるように動画も掲載してある。
 春夏ともに甲子園大会は相応の視聴率が期待できるコンテンツで、NHKも「受信料に見合う放送・番組の一つ」と一部の視聴者が期待する甲子園大会の中継を手放したくないという思惑もあるだろうから、こんな風にお茶を濁したのだろう。そうしないと「高校生が炎天下で野球するのを放送しておいて「日中の運動は控える」って矛盾しているだろう」というクレームが避けられない、という判断があったのだろう。
 つまり、夏の甲子園大会に関しては朝日新聞もNHKも、大会を現在のまま継続したい大会側/高野連と利害が一致する関係にあると言えるだろう。そんなメディアが、当該案件に関して中立的な視点で報道できるのかと言えば、特に冒頭で紹介した朝日新聞の記事、昨年のNHKの例を見ていると決して「できる」とは言えそうにもない。

 大体、開会式途中で給水時間を設ける、なんて今までやってこなかった事の方がおかしく、そんな程度の事を誇らないで欲しい。
 今考えれば虐待なんじゃないか?とすら思うが、自分が学生だった頃は夏の蒸し暑い体育館などで、生徒を立たせたまま朝礼を行い、校長の長い説教の間に2-5人、多い時はそれ以上の生徒が貧血でぶっ倒れるなんてことがザラだった。先生たちは「気分が悪くなったら早めに言えよー」と言うだけだった。倒れる生徒が出ることは分かっているのだから、今思えば、せめて座らせて説教すればいいのにとか、口内放送のシステムは既にあったのだから、体育館に全校生徒を集めて湿度と気温を高い状態などにせず、放送室と教室のテレビモニターを使って、生徒を自分の席に着席させて説教すればよかったのに、としか思えない。
 高校野球や部活に限らず、学校というのは何故か新しいことを嫌がる傾向にあり、たとえば、学校に水筒を持ってきてよくても、登下校時に水筒の中身を飲むのはダメとか、水筒の中身は水かお茶以外はダメとか、授業中に飲むのはダメとか、 今でも90年代初頭まで当たり前のように行われていた、「運動部は活動中に水を飲んではダメ」の延長線上にあるようなことを生徒に押し付ける傾向が、未だにまだまだあるように感じる。
 高校野球で言えば、球数制限の議論が最近始まったが、それでもまだ「生徒が投げたいと言っているのだから尊重したい」とか、「有望選手が私立に集まる傾向にあり、公立が不利になる」とか、何かにつけて従来通りを維持しようとする傾向が強い。「生徒が投げたいって言っている」というが、怪我をする恐れがあるなら生徒がそう言っても止めるのが教員等の役目だろう。水泳部が波が高いのに遠泳したいと言ったら、登山部が大雪なのに登山を決行したいと言ったら、10人中9人は止めるはずだ。また、私立に選手が集まって公立が不利になるというなら、公立は学校単位での出場ではなく、同地区の2-3校で合同チームを組み、日頃から同じチームとして一緒に練習すればいいのではないか。そうすれば校内の屋外運動部での校庭の取り合いも減りそうだ。
 「最後まで投げ切るという達成感を…」なんて話も耳にするが、それこそ、未だに怪我の恐れのある過大な組体操を「達成感」という便利な言葉で正当化するのと大差ない。


 例えば、少子化の問題に関しては1970年代、遅くとも1980年代には既に指摘がなされていたし、その後も継続的に指摘は続けられてきたのに、団塊の世代が引退するこの時期になってから、今更のように「超高齢化社会が深刻だ―深刻だ―」と騒ぎ始める。原発にしても、事故前に「安全だー安全だー」と言い張っていたのに、いざ事故が起きると「想定外だった」と言い訳し、喉元過ぎれば熱さを忘れるで、10年も経たずに「再稼働しよう」と言い始める。年金の問題だって同様で、2000年代の「消えた年金問題」も全く解決していないのに、次から次へと厚労省の杜撰な管理が明るみになり、しかも複数の省庁が将来的に年金支給だけでは生活ができなくなるという試算をしているのに、政府はそれを誤魔化すことに躍起になる。幼児虐待の問題も、「誰々ちゃんが死にました」という報道がされた時は「抜本的な解決を!」なんて声が高まるのに、結局抜本的な解決策など講じられないし、同じ様な事件が次々に起こっている。
 結局、今も昔も日本の社会は、兎に角従来を踏襲することが重要視される傾向にあり、問題が将来的に生じる恐れが指摘されても、対策が充分に講じられる場合の方が少ないのではないか。そして実際に問題が生じるとその直後は大騒ぎになるが、熱しやすく冷めやすいのか、少し経てばみんな揃って忘れてしまい、元の状態が続くことが多いように思う。

 高校野球の熱中症も、このままだとその内誰かぶっ倒れて死ぬだろう。というか、部活で炎天下走らされた部員が死亡するというケースは既に発生している。にもかかわらず、冒頭で紹介した程度のことで「熱中症対策の強化」なんて言っているのだから、この先高校野球の地方大会か甲子園大会の最中に選手が意識を失って倒れたり、そのまま死んだとしても、その大会が中止になるかそこらで、結局伝統だ何だのと、これまで通り炎天下の中での大会が続くんだろう、生徒の健康などは後回しで、としか思えない。

このブログの人気の投稿

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになる

 攻殻機動隊、特に押井 守監督の映画2本が好きで、これまでにも何度かこのブログでは台詞などを引用したり紹介したりしている( 攻殻機動隊 - 独見と偏談 )。今日触れるのはトップ画像の通り、「 戦闘単位としてどんなに優秀でも同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになるわ。組織も人も特殊化の果てにあるものは緩やかな死 」という台詞だ。

フランス人権宣言から230年、未だに続く搾取

 これは「 Karikatur Das Verhältnis Arbeiter Unternehmer 」、1896年ドイツの、 資本家が労働者を搾取する様子を描いた風刺画 である。労働者から搾り取った金を貯める容器には、Sammel becken des Kapitalismus / 資本主義の収集用盆 と書かれている。1700年代後半に英国で産業革命が起こり、それ以降労働者は低賃金/長時間労働を強いられることになる。1890年代は8時間労働制を求める動きが欧米で活発だった頃だ。因みに日本で初めて8時間労働制が導入されたのは1919年のことである( 八時間労働制 - Wikipedia )。

馬鹿に鋏は持たせるな

 日本語には「馬鹿と鋏は使いよう」という慣用表現がある。 その意味は、  切れない鋏でも、使い方によっては切れるように、愚かな者でも、仕事の与え方によっては役に立つ( コトバンク/大辞林 ) で、言い換えれば、能力のある人は、一見利用価値がないと切り捨てた方が良さそうなものや人でも上手く使いこなす、のようなニュアンスだ。「馬鹿と鋏は使いよう」ほど流通している表現ではないが、似たような慣用表現に「 馬鹿に鋏は持たせるな 」がある。これは「気違いに刃物」( コトバンク/大辞林 :非常に危険なことのたとえ)と同義なのだが、昨今「気違い」は差別表現に当たると指摘されることが多く、それを避ける為に「馬鹿と鋏は使いよう」をもじって使われ始めたのではないか?、と個人的に想像している。あくまで個人的な推測であって、その発祥等の詳細は分からない。