スキップしてメイン コンテンツに移動
 

「働き方改革」に必要なのは、非正規やフリーで働く際に権利が充分に保障される制度の充実


 日経新聞に6/1に掲載された、フリーランスで働く人同士や、彼らと企業間の仕事のやりとりを促す仕組みを提供している企業・ランサーズの広告が注目を浴びている。


この画像はハフポストの記事「『#採用やめよう』全面広告で物申す ランサーズ社長「正社員だけが前提になっている」」 から引用した。ランサーズの社長・秋好 陽介さんにも取材をした記事で、この広告を出した意図なども紹介している。


 SNSなどを見ていると、この広告に対して賛否両論あるようだ。どんな事案にも賛否両論があるのは当然で、賛しかないことも否しかないことも厳密にはあり得ないが、賛否が概ね拮抗している、少なくとも自分にはそう見えるということた。自分のこの広告内容に感じるのは否なのだが、この広告に対する主な否の見解、
 解雇制限の緩和を進めたい企業側の利益に偏った主張
という見解とは少し認識が異なっている。
 昨今トヨタの豊田 章男社長や経団連の中西 宏明会長などが、口を揃て「終身雇用制限界説」を唱え始めたのには強い違和感を感じるし、秋好さんは「正社員だけを前提に、働くことや採用を考えるのはやめよう、ということを考え議論するきっかけになれば」と言っているが、では正社員でなく非正規やフリーで働く場合に、労働者の権利が充分に保障されるような制度の充実が図られているか、社会が醸成されているかについては大きな疑問を感じる為、そのような指摘が的外れだとは思わない。寧ろ概ね妥当性のある指摘であるようにも思う。
 しかし一方で、確かに労働者自体が正社員に拘り過ぎている側面もあるとも思っている。その労働者自身の正社員への拘りが、正社員になった者が非正規やフリーランスの人間を見下す風潮に繋がっている側面も確実にあるだろう。以前に建築関連の仕事をしていた際に、現場の職人を見下す施工会社社員やデザイナー・施主を嫌という程見てきた。大きな会社に所属している者程そんな傾向が強かった。デザイナーにはフリーランスの人間も多いのに、彼らも仕事を回してくれる施工会社やその社員には一定の敬意を払い、フリーランスかそれに準ずる立場の職人を見下す場合が多くあった。そこには勿論仕事を出す側と受ける側という立場によってそのような傾向になる側面もあったのだろうが、どうもこの国の社会にはフリーランスや非正規労働者を「正社員になれなかった者」のように見下す風潮があるように感じる。そんな視点で考えれば、秋好さんの「正社員だけを前提に、働くことや採用を考えるのはやめよう」という話を肯定的に受け止めることも出来る。


 では何故自分はこの広告の内容に否定的なのかと言えば、広告が前提として挙げている、
 インターネットの力によって、個人は時間や場所にとらわれず、自由に働くことが出来るようになった
という話に由来する。果たして「ネットの普及などで場所や時間にとらわれずに働くことが可能になった」は正しい認識だろうか。自分には全くそう思えない。
 確かにデスクワーク等のホワイトカラー的な労働スタイルに関しては、「場所や時間にとらわれずに働くことが可能になった」と言ってもそれ程的外れれはないと自分も感じている。しかし、所謂現場仕事、ブルーカラー的な労働スタイルだと、未だに場所や時間に囚われざるを得ないのが実情だ。物理的な商品・製品の生産に関する仕事ならば工場・工房でなくては仕事にならないし、他の労働者と時間を合わせて働かなくてはならない事も多い。それは建築関連等の現場仕事でも同様だし、運送業なども確実に時間と場所に縛られる職業だ。サービス業や小売り業も店舗にいなくてはならないことが大半で、営業時間が決まっていれば確実にその間は時間と場所に縛られる。つまり今でもブルーカラーは概ね、時間や場所にとらわれず自由に働くことはできない
 例えば建築関連の職人等、フリーランスの現場仕事というも多くある。ランサーズという会社がその手の仕事を扱っているのかどうかは知らないが、どう考えても彼らが「時間や場所にとらわれず、自由に働くことが出来るようになった」とは思えない。例えば、バブルの頃に比べて同程度かそれに準ずる程度の賃金水準が維持されているような状況なら、彼らも仕事を選ぶことが可能で、合わない時間や場所での仕事は断れる、仕事を選べるという広い意味で「時間や場所にとらわれず、自由に働くことが出来る」と言えるかもしれないが、景気が良いと政府が言い続けているにもかかわらず、仕事の単価は決してよい状況とは言えないし、人手不足なのに賃金が上がっていない状況では、「フリーランスは自由に働くことが出来る」なんて口が裂けても言えない。

 「ネットの普及などで場所や時間にとらわれずに働くことが可能になった」を前提にしているこの広告や、前述のハフポストの記事で秋好さんが主張していることは、ブルーカラーを度外視した話としか思えないので全く賛同できないというのが自分の見解だ。これはこの広告や秋好さんに限った話ではなく、政府が「働き方改革」というスローガンを掲げていることで、昨今しばしば取り上げられる議論や主張の多くにこの傾向が見られる。
 少し前にヤマト運輸や日本郵便等の現場の配達員等が悲鳴にも似た声を上げたことによって、運送業の労働環境は少なくとも以前よりは改善の方向にあるようだし、年末年始の営業取り止めとう小売業界でも環境改善の動きはみられるし、今年に入ってあるコンビニ店のオーナーが声を上げたことによって、コンビニ業界でも24時間営業を見直す機運が見られる。そんなことを勘案すれば、決してホワイトカラーにだけ注目した労働者環境の改善が議論されているとは言えないかもしれないが、「ネットの普及などで場所や時間にとらわれずに働くことが可能になった」なんてことを言う人を見る度に、
 この人にはホワイトカラーしか見えていないんだな
と思ってしまう。


 フリーランスや非正規労働のよい面を強調する人の多くは、「多様な働き方」という言葉を用いる場合が多い。その言葉を用いなくともニュアンスは十中八九用いられる。多様な働き方を強調する人が、ホワイトカラーにばかり注目した「ネットの普及などで場所や時間にとらわれずに働くことが可能になった」のような、ブルーカラーを度外視した話を持ち出すことに強い矛盾を感じる。多様性のすばらしさを強調するのに、自分と異なる労働スタイルを無視する、つまり多様性を度外視するのは一体どういうことなのか。彼らはどのように折り合いをつけて主張しているのだろうか。
 そんなことを考えると、「正社員だけを前提に、働くことや採用を考えるのはやめよう」なんてのは、単に解雇規制緩和を進めたい経営者や企業の都合のようにしか思えない。非正規やフリーで働く場合に、労働者の権利が充分に保障されるような制度の充実を進めているとは言えない「働き方改革」など、絵に描いた餅、やってる感を演出する為の美辞麗句としか思えない

このブログの人気の投稿

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

読書と朗読を聞くことの違い

 「 本の内容を音声で聞かせてくれる「オーディオブック」は読書の代わりになり得るのか? 」という記事をGigazineが掲載した。Time(アメリカ版)の記事を翻訳・要約した記事で、ペンシルベニア・ブルームスバーグ大学のベス ロゴウスキさんの研究と、バージニア大学のダニエル ウィリンガムさんの研究に関する話である。記事の冒頭でも説明されているようにアメリカでは車移動が多く、運転中に本を読むことは出来ないので、書籍を朗読した音声・オーディオブックを利用する人が多くいる。これがこの話の前提になっているようだ。  記事ではそれらの研究を前提に、いくつかの側面からオーディオブックと読書の違いについて検証しているが、「 仕事や勉強のためではなく「単なる娯楽」としてオーディオブックを利用するのであれば、単に物語を楽しむだけであれば、 」という条件付きながら、「 オーディオブックと読書の間にはわずかな違いしかない 」としている。

あんたは市長になるよ

 うんざりすることがあまりにも多い時、面白い映画は気分転換のよいきっかけになる。先週はあまりにもがっかりさせられることばかりだったので、昨日は事前に食料を買い込んで家に籠って映画に浸ることにした。マンガを全巻一気読みするように バックトゥザフューチャー3作を続けて鑑賞 した。

敵より怖いバカな大将多くして船山を上る

 1912年に氷山に衝突して沈没したタイタニックはとても有名だ。これに因んだ映画だけでもかなり多くの本数が製作されている。ドキュメンタリー番組でもしばしば取り上げられる。中でも有名なのは、やはり1997年に公開された、ジェームズ キャメロン監督・レオナルド ディカプリオ主演の映画だろう。