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貧すれば鈍する


 人間は自分に余裕がなくなると途端に隣人に冷たくなる。学生時代に週3シフト勤務でアルバイトをしていた。あるときその会社で給料の支払いが遅れる事案が発生した。給料自体は給料日の2日後に支払われたのだが、その後、同じ部署で働いていた社員女性1人とパートのおばさん3人が、人事権を持っているわけでもないのに、勝手に私のシフトを減らそうとしてきた。恐らく彼女たちは、人件費を少しでも減らそうと画策し、責任者に相談もせずに勝手に私をリストラしようとしたのだろう。「コイツのバイト代が浮けば私たちの給料はなんとか確保できるかも」のように思ったのかもしれない。実際は私のバイト代を削ったところで、彼女らの給料が確保される保障はどこにもない。彼女らも結局は立場上、いつリストラされてもおかしくない私と似たような立場の筈なのに、週3勤務という、所属する集合の中で最も立場の弱い私を切り捨てることで、「これでなんとかなる」という、なんの確証もない一抹の安心感を得たかっただけだったのだろう。
 似たような話は日本では今もゴロゴロ転がっている。いや、日本に限らず他の国も似たりよったりの状況に思える。窮した人達が排他的になる背景には、このような思考が少なからずあるのではないかと想像する。


 この投稿の見出しに使用した「貧すれば鈍する」とは、
 貧乏すると、世俗的な苦労が多いので、才知がにぶったり、品性が下落したりする(コトバンク/大辞林
という意味の慣用表現である。この説明は少し大雑把だが、人は誰でも、貧乏になると普段の生活を成り立たたせることに追われ、他のことに考えを巡らせる余裕がなくなり、その結果どんなに賢い人でも心が貧しくなりがちである、というニュアンスだ。
 この投稿のトップ画像は、昨今論理的とは言えない事案が多く、更にそんな事案を無批判に伝える報道も多く、何故こんなことになったのか?、日本社会が以前より経済的に貧しくなったからではないか?、その始まりはいつからか?、それは1991年のバブル崩壊に端を発しているのではないか?、と考え、
日本社会の文明度の退化はバブル崩壊・1991年から始まったのではないか
という思いを込めて、geraltによるPixabayからの画像を加工して作成した。

 日本は数十年前まで、少なくともバブル期頃までは、成熟していたとは決して言えないが、それでも、1945年の敗戦から飛躍的に経済成長を成し遂げた、世界に冠たるアジア1の文明国だった。主に経済面で評価されることが多かったが、当時の周辺諸国に比べて民主主義・自由主義など精神的な面でも明らかに進んでいた。しかし、周辺諸国が相応に発展を遂げた今、経済的にも精神的にも日本のアドバンテージは失われつつある。それどころか、昨今おおよそ文明的な国で起きているとは思えない事案も多く、自分には、現在の日本は、経済的にも精神的にも退化し始めているとしか思えない。
 ある程度経済的に成熟した国が経済的に停滞するのは、ある意で味仕方がないのかもしれない。しかし、経済の停滞と共に精神面でも停滞すれば、その国の魅力は坂を転がるように落ちていく。つまり実質的には停滞ではなく退化・転落と言った方が正しいのかもしれない。


 昨日も論理的とは言えない事案の報道がいくつかあった。

 まず一つ目は、「森友問題、佐川氏ら10人再び不起訴 特捜部捜査終結」(朝日新聞)だ。
 とうとう日本は公文書を改竄しても罪に問われない、問わない国になってしまった。不起訴の理由が、公文書が改竄されたかどうか立証できない、ならば、納得できるかどうかは別として、理解だけはできるかもしれない。しかし、森友学園への国有地売却に関する公文書が改竄されたのは、既に立証の必要がないと言っても過言でない程明白だ。それは財務大臣や政府も既に認めている。記事によれば、今回不起訴が確定して理由は、
 特捜部は再捜査で、取引に関する資料を再度分析。関係者を改めて事情聴取するなどして検討を重ねた結果、いずれの容疑も起訴して有罪を立証するのは困難と判断した
からなのだそう。記事には「とみられる」とあり、あくまでもこの見解は朝日新聞記者の認識ではあるが、公文書が明らかに改竄されているのに有罪に出来ない検察や制度・法律に、一体どんな存在意義があるだろうか。このままでは、都合の悪い文書は改竄し放題なのが日本、と諸外国からも見られるだろう。そんな国がまともな外交相手として認識して貰えるだろうか。貰えるはずがないと考えるのが自然だろう。
 それ以前に、公文書を改竄しても罪に問われない・問わない状況を政治の腐敗と言わずして、一体何が腐敗と言えるだろうか。こんな状況でも、相変わらず政府の支持率は下がらないし、政党別でも与党の支持率が最も高い。汚い表現で申し訳ないが、政府与党の支持者らには「お前たちに目ん玉はついているのか?お前たちの頭に脳みそは入っているか?」と問いたい。


 次は「“進次郎はポスト安倍” 菅官房長官」(NHK/スクリーンショット)だ。
 菅官房長官は、小泉 進次郎衆議院議員が閣僚になる資格を備えており、「ポスト安倍」の1人だという認識を示したそうだ。現政権だけでなくこれまでのどの政権でもそうだが、今後の選挙戦に向けての箔をつける為に、どう考えても妥当とは思えない人が大臣に任命されることがしばしばある。それを考えれば、大して何かの実績があるわけでもない小泉氏について「資質がある」という話が出てきても、全然賛同も納得もできないが、それ程珍しい話でもない。しかし急に「ポスト安倍」つまり次期総理大臣候補とまで言いだすのは、あまりにも論理的な思考を逸脱し過ぎているとしか言いようがない。
 例えば、直近に何にか大きな成果を上げたのならそのような話が出てきても理解できるが、そんな話は全く見当たらないし、彼が何かしたかと言えば、つい先日滝川 クリステルさんとの結婚を発表したくらいしか思い当たらない。つまりこの国では、少なくとも現政権では、滝川さん、若しくは彼女のような有名人と結婚すると、その知名度などによって大臣の資質が生まれ、更に次期総理大臣候補にもなれるということのようだ。
 自分には、安倍氏や菅氏が、大した実績はないが人気だけは3人前の小泉氏を前面に出して、所謂院政状態を築こうとしているように思える。戦前賛美志向の強い彼らを見ていると、元老院の復活もない話ではない、と思えてしまう。つい10年前までは「そんなバカなことが起きる筈がない」と一蹴できたような話だが、いまは単なる冗談では済まなくなってしまっている。


 最後は「JOC 理事会を非公開へ 「議論を活発にしたい」」(NHK/スクリーンショット)である。
 6月にJOC会長に就任した山下 泰裕氏は、「マスコミがいる前では理事会で活発な議論が行えず、まだ明らかになっていない国などの動きの情報共有もできない。JOCが信頼回復を進めるには本音の議論が不可欠だ」と説明し、これまで原則として公開してきた理事会を、「議論を活発にしたい」などの理由で、非公開とすることを決めたそうだ。ハッキリ言って「開いた口が塞がらない」とはこの事だ。1984年のロサンゼルスオリンピックの英雄が、こんなバカげたことを言っているのかと思うと、残念というよりも情けないという感情が湧いてくる。
 議論を活発にしたいなら、寧ろ理事会を公開して多くの意見を募るべきなのに、なぜ理事会を非公開にする必要があるのだろうか。単に聞かれたらまずい話が出来ないから非公開とすると言っているようにしか思えない。例えば、「議論を活発にしたいから国会や各委員会を非公開にする」なんて誰かが言いだしたとして、納得する国民がどれ程いるだろうか。バカも休み休み言って欲しい。議論を活発化したいから理事会を非公開にするということは、議論は理事会だけですればいいと言っているのも同様で、つまりJOCは理事会だけのもの、更に言えば、オリンピックに関しては理事会だけ密室で何事も決めるべき、と言っているのも同じではないのか。そんなJOCやオリンピックが果たして賛同を充分に得られるだろうか。


 一体この国は、いつからこんなに論理的でない話がまかり通る国になってしまったのか。個人的には、政府・首相が嘘に嘘を重ねることで、国民もそれを真似始めたのだろうと思っている。つまり、この状況の発端は1991年のバブル崩壊だったかもしれないが、直接的には、2012年の政権交代、若しくは、2013年にブエノスアイレスでの東京オリンピック招致演説の中で安倍氏が述べた、「(福島の原発事故・汚染水は)アンダーコントロール」という世界に向けた嘘がその端緒に当たるのではないだろうか。
 2012年以前は、勿論それ以前もおかしな報道はしばしばあったが、それでも報道機関は概ねまともさを保っていたように思う。しかし昨今、つまり2012-13年以降は、この投稿で取り上げたような、全く論理的とは言えない事案にもかかわらず、無批判にただ垂れ流すだけの報道が目立つようになったのも、自分がそのように考える理由である。政府・メディア・そして国民、要するにこの国の全てが「貧すれば鈍する」状態にあり、それは今後更に進行する恐れもある、と懸念している。
 もしかしたら、この状況の発端は2012年の安倍政権の成立ではなく、2011年の東日本大震災だったかもしれない。あの当時は民主党政権だったが、当時既に「直ちに人体に影響はない」のような欺瞞に満ちた政府発表が始まっていた。個人的には民主党政権だろうが自民党政権だろうが嘘は嘘だと思っている。しかし、中には秩序の維持には嘘も必要だ、と、アレから感じ取ってしまった人達もいるのかもしれない。そんな人たちが今の政権を、積極的に、若しくは消極的に支持しているのなら、発端は2011年にあり、その結果安倍政権が成立したと捉えるのが妥当かもしれない。しかしもしそうだとしても、結局この国の政府・メディア・そして国民、要するにこの国の全てが「貧すれば鈍する」状態にあることに違いはなさそうだ。

 そんな状況の日本だが、一応今でも普通選挙が行われており、主権在民は維持されている。つまり、この状況の主たる責任は、全ての国民・有権者にあると言えるだろう。全ての国民が「このまま貧すれば鈍するでいいのか」を真剣に考えるべき時が来ている。自分達だけでなく、自分の子や孫の世代のことまで含めてそれを真剣に考えるべきだ。

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