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「学校は命をかけてまで行く所ではありません」


 この投稿のタイトルは、9/12に岐阜市議会で同市教育長が述べた、いじめられている子へのメッセージだ(「学校は命かけてまで行く所でない」教育長がメッセージ [学校がつらくなったら]:朝日新聞デジタル)。この種のメッセージには、追い詰められている者の気持ちを軽くする側面も確実にある。しかし、教育長がこのメッセージを発信していることについて、個人的には違和感もある。いじめがない社会/学校は目指すべき目標ではあるものの、いじめが全くない社会/学校などはあり得ないものでもある。また、いじめか否かの線引きは一筋縄ではいかないものだし、学校や教員・教育委員会が、常にいじめに目を光らせ、全てについて適切に対処することが出来るとは限らないので、ある程度自衛して貰うしかないことも理解する。だが、教育長の仕事は「苦しいのに我慢して学校にいくことはない」といじめられている側に促すことよりも、誰かが我慢しなくてはならないような苦しい学校を無くすことの方が優先順位が上だ。


 自分は、この教育長がどのような人物かよく知らないし、岐阜市教育委員会がいじめ問題にどのような姿勢で臨んでいるのかもよく知らない。記事で取り上げられている部分以外で岐阜市教育長がそのような趣旨の発言をしていたなら、その時はこの投稿の一部は無視して欲しい。しかし、記事内容が概ね状況に即しているのだとしたら、教育長のメッセージはいじめ問題への対応の姿勢として、消極的と言わざるを得ない。
 例えば、
教育委員会は、大ウソつき
というメモを残して高校1年の生徒が自殺を図ったという話も、9/9に報じられた。



「教育委員会は、大ウソつき」埼玉県川口市で高1生徒がいじめを苦に自殺 | 文春オンライン」によると、
 生徒は中学時代にいじめにあい、いじめを伝える手紙を何度も書いていたが、中学校側はそれまでSOSと受け止めていなかった。3回目の自殺未遂で後遺症で足に障害が残った。学校や市教委はようやく、いじめの重大事態として、調査委員会を設置した。ただし、生徒側にはそのことを伝えておらず、聞き取りもされていない。生徒や家族はこうした対応に不満を持っていた。
とされている。こんな報道がされてから4日後の9/13にも「埼玉)15歳いじめ自殺 川口市教委、まだ遺族と未接触:朝日新聞デジタル」という記事が掲載された。
 この件は埼玉県川口市の話だし、この件だけで「岐阜市教育長の姿勢も同じだ」とするのは乱暴だろう。しかし、今も尚、教育がいじめに加担していたり、無視していたり、パワハラまがいの言動をしていたり、教育だけでなく学校や教育委員会も一緒になって、被害を訴える生徒や家族の主張を軽視していたとか、いい加減な調査結果を公表し、いじめを隠蔽しようとしていた、その結果絶望した生徒が自殺に追い込まれた、なんて話は他にも枚挙に暇がない。勿論、世の中にはそうではない教員/学校/教育委員会も決して少なくはないのだろうが、もしそうだとしてもやはり、いじめられている生徒に「学校に来なくてもいいよ」と言う前に、いじめている側の生徒を停学にするなり学校謹慎にするなりして、いじめられている生徒が学校に行く事を苦しいと思わなくて済む環境を作ることの方が先だろう


 冒頭でも書いたように、「学校は命をかけてまで行く所ではありません」というメッセージが全く不適切で言語道断だ、と言うつもりは全くない。勿論それで楽になれる生徒は大勢いるだろう。しかし、いじめていた生徒が何のお咎めもなく学校で楽しくやっているような状況で、「学校に来なくてもいいよ」と、教員やその立場に近いものに言われたら、いじめられていて精神的に弱っている場合「お前が来るとややこしくなるから来ない方がいい」と言われたと感じる恐れもある。何べんも同じ事を書いて申し訳ないが、だから 「学校は命をかけてまで行く所ではありません」と絶対に言ってはならない、という話ではない。
 しかし、いじめられて精神的に弱っていて、所謂鬱に近い状態になっていると、どんな些細なこともネガティブに捉えてしまう場合がある。いじめられている生徒に「とりあえず学校に行こう」と促すことは、鬱状態の人を「がんばれ」と励ますようなもので、事態を悪化させることにもなりかねない。というか、多くの場合悪化させてしまう。しかし、ネガティブ思考が強くなっていると、「来なくていい」と言われた場合に「お前みたいなやつは来るな」と言われたように感じてしまう場合が確実にある。「学校は命をかけてまで行く所ではありません」が、「みんなが普通に通っているのに、そんな普通のことが出来ない奴は来なくてもいい」と聞こえてしまう恐れもある。しかも、もしそのいじめられている生徒が前段の川口市の生徒のように、学校や教員/教育委員会の消極的な態度に不信感を持っていれば、そう聞こえてしまう確率は各段に上がる。自分をいじめていた者が何のお咎めもなく学校へ通っていれば、そう聞こえる確率は更に上がる。
 必ずそのように聞こえてしまうというわけではないが、それでもやはり、そんな視点で考えると、教員/学校/教育委員会のすべきは、「学校は命をかけてまで行く所ではありません」と、いじめられている生徒に、問題解消のコストを負わせるようなことを言うのではなく、いじめている側を停学/学校謹慎等にして、若しくは転校させるなどして、いじめている側に問題解消のコストを負わせる対応をすることではないだろうか。そうでなければ、いじめられた生徒は教員や学校/教育委員会を信頼することが出来ないのではないか。


 トップ画像は、StockSnapによるPixabayからの画像 を加工して使用した。

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