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外務省と米国メディア、情報力が高いのはどっち?


 日本の外務省は英語表記を「Ministry of Foreign Affairs」としている。韓国・中国・台湾・シンガポールなども同じく外交に関する中央官庁をそう表現しているのだが、興味深いことに、同じアジアでもおよそ90年もの間イギリスによって支配され、また国内に多数の言語が存在している為に今も英語が公用語の1つになっているインドでは、「Ministry of External Affairs」としている。因みにインドと同じく英国から独立したオーストラリアでは「Department of Foreign Affairs and Trade(外交貿易省)」で、英語の母国・イギリスでは「Foreign and Commonwealth Office(外務・英連邦省)」だ。もう一つの英語圏の大国・アメリカでは「United States Department of State(合衆国国務省)」だ。元は「Ministry of Foreign Affairs」だったそうだが、設立直後に内政機能も付加され「Department of State」と改称し、後に内政機能は別の組織に移管したが名前だけが残っているらしい(Wikipedia:アメリカ合衆国国務省#歴史)。結果的にかもしれないが、英語を公用語とする国と非公用語の国(シンガポールでは、英語は公用語の1つではある)で英語表記が異なっているのが面白い。

 先週末に「日本政府や外務省には充分な情報収集力があるのだろうか?」という疑問を感じる事案があった。


 ニューズウィークは11/16に「トランプが日本に突き付けた「思いやり予算」4倍の請求書 | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト」と報じた。


 記事によれば、
トランプ米大統領が日本政府に対し、在日米軍駐留経費の日本側負担(思いやり予算)を大幅に増やすよう要求していることが分かった。
そうだ。「21年3月末の日米特別協定更新の期限を前に、日本が負担している約20億ドルを約80億ドルに増やすことを日本政府に求めた」とも書かれている。つまり内容に間違いがなければ見出しの通り、トランプ政権は日本政府に米軍駐留経費負担を現在の4倍以上に増額することを求めていることになる。

 この、米国が日本に対して思いやり予算の大幅増額を求めたという話について、9月に災害対応そっちのけで発表された新内閣人事(9/11の投稿)によって、外務大臣から防衛大臣へと役職が変わった河野 太郎氏は翌17日に、
(そうした)事実関係はない
と述べたそうだ(思いやり予算増要求「事実ない」 河野防衛相:時事ドットコム)。
 果たしてニューズウィークなどの米国メディアと日本の防衛大臣のどちらの言い分が正しいのだろうか。個人的には前者の方に信憑性を感じる。何故なら、もし水面下でそのような動きがあったとしても、政府間での正式なやり取りではないとすれば、「(現時点ではそのような)事実関係はない」と言っても嘘にはならない、という認識に基づいた河野氏の発言と捉えることもできそうだし、現政権は「日報」や「怪文書」など、都合が悪いと「あるもの/こと」を「ない」とし、しかし後に実際にはあったことが発覚した例が複数あるし、さまざまな観測気球も頻繁に上げるので、この件も後で「その時点では私には報告はなかった」などと言って官僚の所為にするつもりかもしれない。
 現政権以前の日本の政府なら、全て正しいことを言っているとまでは言えなくても、政府の公表することには概ね信憑性があると捉えることが出来たが、前述のように頻繁に「ない」としていたもの/ことが後に発覚したり、公文書の改竄やデータの捏造という前代未聞の事態が複数発覚し、政権にとって不都合な文書が廃棄されるという事案も頻繁に発覚しており、今の政権には米国メディアよりも信憑性がないのが実状だ。

 もし後々ニューズウィークなどの記事内容が事実だと裏付けられたら、日本政府や外務省は米国メディアよりも情報収集能力に劣る存在であるということが確定してしまう。


 ここのところ頻繁に触れており、昨日の投稿でも触れた「桜を見る会」の問題に関しても同様に「ある」ものを「ない」としていた事案が既に起きている。当初「桜を見る会に問題はない」と強調していた菅官房長官は、昨日の会見で、政権幹部や与党議員に割り当てられていた招待者の推薦枠について、撤廃の方向で検討していると述べている(「桜を見る会」で菅官房長官、招待者推薦枠「撤廃」で調整へ TBS NEWS)。


あれほど「問題はない」と強調していたのに、なぜ来年の桜を見る会を首相が中止し、これまで政権幹部や与党議員に割り当てられていた招待者の推薦枠を撤廃する必要があるのか。問題がないなら来年も今年と同様の会を開くのが筋だろう。このようなことをやっているから彼らの主張・発表、つまり日本の政府の言う事からどんどん信憑性がなくなっていく。それは当然他国政府にも伝わるから諸外国に軽く見られ、米国が日本へ思いやり予算の大幅増額を求めている、なんて話も出てくるのだろう。
 付け加えておくと、TBSの記事には、菅氏が当初「問題はない」と言い張っていたことに関する記述はなく
野党側はこうした状況を政権幹部による私物化として批判しています。政府側としては、こうした推薦枠の撤廃を進めることで、政権へのダメージを最小限に押しとどめる狙いがあるものとみられます。
などと、まるで他人事のような書きぶりである。
 アメリカの哲学者・ノーム チョムスキーさんは、著書「メディア・コントロール―正義なき民主主義と国際社会」の中で、権力がテレビ等のマスメディアを使って如何に大衆を支配するかについて論じている。彼の主張をアニメ化した動画をカタールの放送局・アルジャジーラが公開している。



残念なことにこの動画には日本語字幕の設定はないが、この動画の日本語による解説が「マスメディアがいかに世論を操るのか、ノーム・チョムスキーのマスメディア批判「合意の形成」をアニメで分かりやすく解説 - GIGAZINE」でされている。



 因みに、11/16には「政府、「北方領土と言わないで」 ロシアとのトラブル懸念 | 共同通信」という報道も一部であったのだが、一部の新聞が伝えているだけで、テレビでは殆ど報じられていない。政府内でも民間でも「北方領土」とこれまで長い間呼称してきたのに、ロシアへ配慮して「北方四島」と表現するようにしてくれ、というのは、明らかな北方領土問題の後退だ。なぜそれを主要なメディアは報じないのか。政府に都合が悪い内容なので、誰かが政府に配慮・忖度して扱いを小さくしている、としか思えない。


 トップ画像は、ファイル:Ministry-of-Foreign-Affairs-Japan-03.jpg - Wikipedia を加工して使用した。

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