今やドリフト競技は、FIA/国際自動車連盟が公認する世界大会が行われるまでになった(FIA Intercontinental Drifting Cup 2019 | FIA公認 国際格式ドリフト競技会 2019)。ヨーロッパやアメリカなどでも盛んに競技が行われており、競技団体は大小数え切れない程である。しかしドリフト競技は、モータースポーツとしてはかなり新しい競技であり、その歴史はまだ20年に満たない。つまり20年前に「ドリフトのプロ」は存在していなかった。
ドリフトは日本発祥の競技だ。ドリフト走法とは後輪を滑らせながら車両の向きを変えるコーナーリング方法を指す。主にラリーやジムカーナなどの競技で用いられてきた。現在のドリフト競技の源流は、1980年代後半から日本各地の峠道や埠頭などに集まるようになった、ローリング族と呼ばれたクルマ好きの若者たちにある。彼らはラリーカーのように、ある区間の速さを競ったり、後輪をスライドさせる派手なドリフト走法で運転の腕前を競ったりした。当然それは違法な行為だった。
1993年にリリースされたリッジレーサーがドリフト走行をテーマにしたレースゲームだったこと、ローリング族を題材にしたマンガ・頭文字Dの連載が1995年に始まり、主人公がドリフト走行の得意な高校生だったことなどから、ドリフト走行の認知はクルマ好きの若者だけでなく、まだ免許を持たない10代にも広まり、ドリフト人気が次第に高まることになる。しかしそうなると違法走行への警察による取締りも厳しくなり、ドリフトカルチャーの舞台は公道からサーキットへと移っていった。
2001年に、ドリフト走行の代名詞とも言えるプロレーサー・土屋 圭一さんと、日本を代表するチューニング雑誌・オプションの編集長・稲田 大二郎さんの、「ドリフトがどれだけ上手くてもその先はない。だったらドリフトで飯を食えるようにプロ化にしよう」という提案によって、遂に世界発のドリフト競技・D1GPが誕生した(全日本プロドリフト選手権#概要 - Wikipedia)。
D1GPは当初アメリカやイギリスでもエキシビションを行っていた為、ドリフト競技は海外でも注目されることになり、2004年にはD1GPのアメリカ版とも言えるフォーミュラードリフトが発足した。
以前はいなかったのに現在はプロ選手がいて、競技が盛んに行われているのはビデオゲームも同様である。自分達が子どもの頃、つまり1980年代・ビデオゲームの黎明期にも、○○名人と呼ばれるゲームのプロのような人達が少なからずいたものの、彼らはゲームメーカーの広報担当やゲーム雑誌編集者などで、彼らが競技を行うようなことはほとんどなかった。ゲームメーカー・ハドソンによる「全国キャラバン」など、ゲーム大会も少なからず行われていたものの、あくまでも小学生から大学生ぐらいまでのアマチュアによる、賞金も報酬もない牧歌的なものだった。
一方欧米では1990年代後半から賞金が設定された大会が開催されていた。国際的なEスポーツ大会の草分け的な存在の、ワールドサイバーゲームズが最初に開催されたのは2000年のことだ(World Cyber Games - Wikipedia)。日本では2010年代になってから急速にEスポーツ・ビデオゲームプロ選手の認知が進んだ。日本初のプロゲーマーは、2010年にアメリカの機器メーカーと契約を結んだ梅原 大吾さんとされている(梅原大吾 - Wikipedia)。
このように、「プロ」と言えば、その競技や分野で収入を得て本業にしている人、のような意味合いもあるが、では、自分の作品だけでは食べていけずにアシスタントなどもしている売れない漫画家や、漫才やコントなどだけでは食べることが出来ずにバイトをしており、芸事にかける時間よりもバイトしている時間の方が長い売れない芸人はプロではないのか?と言えば、決してそうとは言えないし、ドリフトやビデオゲームのように競技化/収益化が確立していない分野でも、その道のプロと呼ばれるような人が少なからずいる。つまり、「プロ」には、その道の専門家、のような意味もある。
日本とカメルーンにルーツを持つタレント兼マンガ家の星野 ルネさんのこのツイートを見て、
僕たちには休息が必要なんです、情熱と同じくらい。フォローで応援、休息と同じくらい必要です。リツイートでドツボにはまっていた人にアイデアが舞い降ります。いいねで鳥の求愛のダンスに革命がおきます。#漫画 #図工 #絵画 #加減 pic.twitter.com/Qs3wT8lgiO— 星野ルネ (@RENEhosino) December 28, 2019
自分は次のようにツイートした。
締め切りと情熱の折り合いをつけるのがプロ。この時のルネさんは小学生だから絵描きとしてはプロじゃないけど、小学生としてはプロだからね。どんな時もバランス感覚は大事この場合のプロは、「締切と情熱の折り合いをつけるのがプロ」に関しては、報酬が発生しないのであれば折り合いをつけずに気が済むだけ情熱を注ぎこんでもよいだろうから、前者の意味も含んでいる。「小学生としてはプロ」については、小学生という立場は、当該年齢の子どもにとってある意味で本業だが、報酬が発生するわけではないので主に後者の意味での「プロ」だ。
すべての小学生は小学生のプロだし、全てのお母さんはお母さんのプロである。お母さんには報酬は発生しないのでプロではない、なんて口が裂けても言えない。報酬が発生しなくてもお母さんはお母さん業のプロだ。そういう意味で言えば、小学生は全員小学生のプロだし、幼稚園児だってみんな幼稚園児のプロフェッショナルだ。
一部の人が、自分と異なる方向性の政治的な発信をする人のことを、「お前らは誰かから金銭を貰うなど、何かしらの利益供与を受けて活動しているに違いない」という、レッテル貼りによる揶揄をする際に「プロ市民」という表現を用いる。しかし、前述のように考えれば誰もがプロ市民なわけで、揶揄のレベルとして完成度が低いと言わざるを得ない。
その種の人達は不思議なことに、不適切な金銭の授受があったり、公職選挙法違反行為をしたり、それらが強く疑われる行為をした、利益優先、場合によっては違法な行為をしてまで自己の利益を優先する議員や政治家のことは、「プロ政治家・プロ議員」とは呼ばない。 また、利益の為に政治的な主張を行っているという意味で言えば、差別的なヘイト本を書いたり、セミナーを開くなどして収入を得たり、同種のネット番組等を制作したり出演したりする、所謂ネトウヨ的な人達の方がよっぽど「プロ市民」だと思うのだが、そのような人達のことも「プロ市民」とは呼ばない。
つまり彼らが用いる「プロ市民」という表現は、彼らがしばしば用いる「反日」、気に入らないメディアや記者を、朝日新聞と関係なくても「アサヒ」と言い始めるのと同じで、自分とは主張の異なる人という意味でしかない。
プロフェッショナルという言葉は英語に由来するが、外来語を受け入れる傾向が強い現代の日本語においては、確実に日本語化した表現の1つである。日本のことを愛しているのなら、日本語表現もっと大事にすべきではないのか。彼らこそ日本を愛していないから日本語表現をいい加減に使うのではないだろうか。
全ての日本人は日本人のプロである。彼らに日本人としてのプロ意識があるのなら、日本語をいい加減に使うことや、民族・性別等による差別的な主張は止めてもらいたい。言い換えれば、国の憲法に規定された基本的人権を尊重出来ない彼らは、日本人として、というか民主主義・自由主義国家の市民としてアマチュアであり、つまり「アマ市民」である。
トップ画像は、Photo by Ralph Blvmberg on Unsplash を加工して使用した。