Android/アンドロイドで検索すると、最初の数ページはGoogle製スマートフォン/タブレット端末向けOSに関する結果しか出てこない。しかし元来アンドロイドとは人造人間/人型ロボットを指す。アンドロイド(あんどろいど)とは - コトバンク によると、初めてアンドロイドという表現を用いたのは、1886年に発表されたフランスの小説「未来のイブ」らしい(未来のイブ(みらいのイブ)とは - コトバンク)。
人工知能/AIが身近になってきたからか、最近再びアンドロイドやAIの暴走というか反乱というか、そのような題材のドラマや映画が再び目に付くようになった。例えば、2015年に製作されたTVドラマ「ヒューマンズ」は、人の代わりに家事や仕事をこなすアンドロイド・シンスが普及した世界における問題を描いていたし(ヒューマンズ | Hulu)、同じく2015年に公開された二―ル ブロムカンプ監督の映画「チャッピー」も、自我に目覚める人型ロボットの話だ(映画『チャッピー』 | オフィシャルサイト | ソニー・ピクチャーズ)。1/31に公開されたばかりの邦画「AI崩壊」は、2030年の日本でAIが暴走し人間を殺害しはじめるという設定だし(映画『AI崩壊』)、昨年は「ターミネーター:ニュー・フェイト」が公開されたが、ターミネーターシリーズもロボットが人間を脅威として排除し始めるという設定で、特に人型ロボットがフィーチャーされている(映画『ターミネーター:ニュー・フェイト』公式サイト| 20世紀フォックス ホーム エンターテイメント)。
前段で、そのような題材のドラマや映画が再び目に付くようになった、と書いたが、人工知能やアンドロイドが人間の予期せぬ行動に出る、をテーマにした物語は枚挙に暇がなく、古くは手塚 治虫のメトロポリス、前述のターミネーター、 大ヒットしたマトリックス、マトリックスが下敷きにした攻殻機動隊、スティーブン スピルバーグのA.I.、ウィル スミス主演のアイ.ロボットなど、コンスタントに製作されているとも言える。
ソフトバンクがペッパーという人工知能を備えたロボットを販売するなど、徐々に現実味を帯びて身近になりつつある人型ロボット/アンドロイド。1990年代以前も空想物語の中では一般的だった人型ロボットだが、当時はロボットアームや車輪で走行する台車のような形態の運搬用ロボットなど、実用的には人型ではないロボットが主流だった。
なぜロボットを人型にする必要があるのか?と言えば、人間の社会が人間に最適化されてデザインされているので、人間の形を模して作れば汎用性が上がるからだ。例えば、全てがスロープで階段がこの世に一切なかったとしたら、ロボットに二足歩行させる必要性はかなり下がるだろう。ロボットに二足歩行させる必要があるのは、勿論足には移動以外の用途もあるが、車輪での移動では越え難い段差が人間社会に多く存在しているから、というのも大きな理由だ。
「障害は個性」って言葉にはいつも引っ掛かりを覚える。障害はどこまで行っても障害でしかないと私は思ってる。コンプレックスとかそれ以前の話。個性と捉えて前向きに転換していくほうが生きていきやすいんじゃないか、ぐらいのことでしかないから、他人から押し付けられる言葉としてはつらみがある。— 豆塚エリ (@mamen325) February 6, 2020
というツイートが昨日タイムラインに流れてきた。個人的には「障害は個性」というポジティブな考え方を否定する気にはなれない。
障害者だろうが健常者だろうが人はそれぞれ違っていて、身体的特徴を例に考えてみると、足が不自由な人がバイクに乗るのは難しいのと同様に、身長が低い女性などは、どう頑張っても座面の高いバイクに乗る事は出来ない。跨った際に足が充分に地面につかないからだ。しかしどうしてもそのバイクに乗りたいなら、座面を低くする為にシートやサスペンションを調整/改良するなど、方法がないわけではない。実は、それは足の不自由な人も同じで、2019年11月に鈴鹿サーキットで開催された「SUZUKA Sound of ENGINE 2019」にて、事故で下半身の自由を失った元世界選手権ライダーの青木 拓磨さんとウェイン レイニーさんが、足が不自由でも操作できるシステムを備えたバイクで走行してみせた(車いすの元GPライダー「ウェイン・レイニー」と「青木拓磨」がバイクで走行 | AUTO MESSE WEB)。
背が低い人には乗れない(乗り難い)バイクがあるの一方で、背の高い人や太っている人は車室の狭いクルマに乗る事ができないということもある。そのように、障害も一つの特徴であると捉えれば、「障害は個性」とも言えるだろう。
但し、個人それぞれの特徴はコンプレックスにもなり得るので、「障害は個性」と言われてもポジティブに受け止められない人もいて当然だとも思う。それ以前にそもそも、非健常者を障害者にしてしまっているのは、健常者が使うことを前提にデザインされた社会だ。障害(しょうがい)とは - コトバンク には、障害とは、
さまたげること。また、あることをするのに、さまたげとなるものや状況。とある。例えば、人間に元々指が3本しかなかったとしたら、社会の全ては3本指/両手で6本指で利用する前提でデザインされるだろう。つまり、現在の社会は概ね5本指/両手で10本指で利用する前提で全ての物がデザインされている。だから指に欠損がある人は利用しづらいモノ/場面にしばしば出くわす。指に欠損がある人も利用する前提で概ね殆どのモノがデザインされていないから、指に欠損がある人にとって利用の妨げになってしまう。もし指に欠損がある人が利用する前提で殆どのモノがデザインされていたら、指に欠損がある人の障害はほぼ解消できるはずだ。
個人的には、誤解を恐れずに言えば、この世で一番多い障害は左利きだと思っている。右利きが多数派である為に、左利きの人は様々な場面で不便を強いられる。一般的に言う障害に比べれば不便の程は低いかもしれないが、広義では障害に該当するのではないか。そんな風に考えたら、実は世界で一番多い障害は左利きではなく女性かもしれない。女性は何かと女性であることを理由に男性よりも不便を強いられる。男性優位を前提にデザインされている部分がまだまだ社会全般に多いからだ。
他の部分で何かしら健常者との違いを有する人についても同じことが言える。つまり障害者と呼ばれる人達は、ある意味で言えば、社会を利用する前提から除外されているから障害者になってしまっているとも言えるのではないか。それは、健常者には必要のない苦労が非健常者に強いられているとも言える状況であり、大袈裟に言えば「虐げられている」とも言えるかもしれない。そんな視点で考えると「障害は個性」なんてのは綺麗事のようにも思える。
最近は少しずつ社会の様々な所で、健常者以外にも優しいデザインが採用されるようになってきたとも感じるが、相変わらず車椅子やベビーカーを邪魔者扱いする人はいるようだし、「障害者は社会に迷惑をかけている」と言い続けている、相模原事件の植松被告の予備軍のような人もまだまだいる。非健常者を障害者にしてしまっているのは、社会の非健常者に優しくないデザインだけでなく、分別の足りない健常者も非健常者を障害者にしてしまっている。
健常者が社会の大多数を占めるのは事実なので、ある程度は、健常者の利用を前提にして社会全般がデザインされるのは仕方がない、というか当然かもしれない。しかし、急に非健常者になる恐れは誰にでもある。年齢を重ねればその確率はどんどん上がっていく。ベビーカーや妊婦を邪魔者扱いする人には、「お前はどこからやってきたのか?」と言ってやりたいし、非健常者を迷惑扱いする人には、「自分や自分の家族や友人が非健常者になった際に、同じように迷惑だと言われても何も言えなくなるのでそのつもりで」と言ってやりたい。
常に自分が多数派でいられると思うのは、壮大な勘違いだ。
トップ画像は、Photo by Franck V. on Unsplash を加工して使用した。