スキップしてメイン コンテンツに移動
 

都合のよい「全員団結」と同調圧力の闇


 「全員団結」というスローガンを掲げたオリンピックのキャンペーンが、先月燃えた(「心をひとつに、全員団結!」炎上した五輪キャンペーンとそっくり? 戦時下“動員ポエム”の世界 | 文春オンライン)。ただ、こんな同調圧力は日本中に転がっている。たとえば学校では、「クラスみんな仲良く」とか「全員参加」があたかも絶対的に正しいことかのように求められることも決して珍しくない。勿論、全ての級友を尊重することを教える必要はあるが、無理矢理仲良くなる必要はない。必要なのはあくまでも尊重だ。



 前述の燃えたキャンペーンだが、趣旨を示すページにこんな文章を載せれば炎上するのは当然だろう。まず「みんなが待ち望んだ、東京2020オリンピック」とあるが、「みんな」とは何を指すのか。自分は待ち望んでいないので「みんな」には該当しない。「じっとしていても、何もはじまらない」から「オリンピックに参加しよう」と言っているが、オリンピックに参加賛同しない=じっとしている ではない。オリンピックに参加賛同する以外にも有意義な時間の使い方は沢山ある。そして「がんばれ!ニッポン!」「日本中が思いをひとつに」などとあるので、「全員団結」の全員や前述の「みんな」は日本人全員を指しているんだろう。押しつけがましいったらありゃしない。
 オリンピックに多額の国の予算が投入されていることを度外視すれば、楽しみたい人だけで勝手にやってくれ、という感覚なのだが、それすらも否定され、全員参加を押し付けるなんて厚かましいにも程がある。

 たとえば満員電車にたまたま乗り合わせただけの乗客全員に、「全員団結、想いをひとつに。みんなで手をつなげばきっと、ものすごい力が生まれる!」などと呼びかけても、半分くらいの人は「はえ?」となるのではないだろうか。なぜたまたま日本に生まれただけ、住んでいるだけで全員団結を求められたり、たまたま同じクラスになっただけで全員仲良く・全員参加を求められなくてはならないのだろうか。
 SNSを利用すれば誰でも一度は、というか人によっては頻繁に所謂「クソリプ」に出くわす。そんな経験があれば、

 誰とでも仲良くなれる・誰とでも分かり合える、というのは幻想に過ぎない

ということは一目瞭然だ。勿論誰に対しても最低限尊重することは必要ではあるが、「尊重する」と「仲良くする/分かり合う」は決してイコールではない


 オリンピックについて「全員団結」なるスローガンを掲げているのに、「小池都知事、東京マラソンの中国人参加自粛を要請 - 産経ニュース」によると、開催都市の知事である小池氏が、新型肺炎の流行を理由に「東京マラソンへの中国人の参加自粛を要請する」 と言いだしたらしい。但し他社の記事は、
としており、小池氏がその見解を示した定例会見のムービーを見ても、産経新聞が見出しに掲げた「中国人参加自粛を要請」は正確性に欠けるようにも思う。
 しかし日本国内でも既に、流行の中心である武漢はおろか中国本土も訪れていない人からも感染者が出ているのだから、中国からの参加者の自粛が必要なら、少なくとも感染者が出た県からの参加自粛の養成も必要なのではないだろうか。つまり結局のところ、中国からの参加者に自粛を要請することと、中国人参加自粛を要請するということは、実態としてはそれ程大きな差があるとも思えない。感染症対策が必要と言うのなら、このところ毎年、空気の乾燥する時期はインフルエンザが流行しており、東京マラソンをその時期に開催すること自体が妥当ではない、ということになりはしないか。
 そんなことから個人的には、中国人ではなく中国からの参加自粛の養成であっても、国籍による差別的なニュアンスを感じてしまう。「全員団結」を掲げたのはJOCではあるが、同じく東京都で開催するマラソンでは、中国人を「全員・みんな」から除外しようとしているようにも思える。新型肺炎対策で特定の国籍を持つ者に参加自粛を養成するくらいなら、日本人同士でだって感染の恐れはあるのだから、開催自体を中止した方がよいのではないだろうか。小池氏の示した見解は、一部の世論を受けて示されたのかもしれないが、逆に言えば、そんな時こそ権力を持つ者は「差別に当たる恐れ」に対して、より配慮するべきではないのか。


 今年は11月に米国大統領選挙がある。民主党の代表を決める予備選が先日アイオワ州で始まり、前評判を裏切って、最年少候補者でインディアナ州サウスベンド前市長のピート ブティジェッジ氏が、バーニー サンダース氏との接戦ではあるが、一躍トップに躍り出た。
 ジュティジェッジ氏はゲイであることを公表していることでも知られているのだが、「彼がゲイだと知っていたら、彼には投票しなかった」という女性が出てきた(候補者がゲイだと知り、投票撤回する動画が拡散「そんな人にホワイトハウスに居て欲しくない」  BuzzFeed Japan)。


 この記事を読んで、
ゲイだと知っていたら投票しなかった
って言ってる女性は、自分が就職試験を受けて採用されたのに、採用の件を細かくチェックしてなかった社長が後から出てきて「女性だと知っていたら採用しなかった、だから採用取り消し」って言いだしたらどう思うだろうか。
それは単なる性差別だよ。
ツイートしたところ、いくつかの反応があった。その1つに、


というリプライがあった。
 どう読んでも「差別という言葉ばなくなれば差別がそのものがなくなる」と言っているが、殺人や強盗、戦争という言葉がなくなればそれらは全て解消されるだろうか?もしそれらの言葉がなくなったとしても行為自体は残り、別の表現に置き換わるだけろう。あまりにも短絡的過ぎる。その様に指摘してもこの人は意に介さず、同じような内容のリプライを再び返してきた。まさに、SNSを利用すれば「誰とでも分かり合える」というのは幻想に過ぎない、ということが分かると再確認した瞬間である。

 ここからは個人的な偏見を含んでいるかもしれないが、敢えて書かせて貰うと、この人は反論されたのが気に触ったのか、自分がその前後にしていたツイートに対して嫌味のようなリプライを複数してきた。その中の一つがこれで、


「ああ、なる程、その種の人でしたか」としか思えなかった。つまりこの人は、細かいことは度外視で取り敢えず「長い物には巻かれろ」 な人なのだろう。その種の人といくら言葉を交わしても分かり合える筈がない。
 この、日本人に比較的多く見られる「長い物に巻かれろ」派は、特に学校など、そしてそれ以外の様々な場面でも、「誰とでも仲良く・全員参加・全員団結」が、絶対的にすばらしい価値観であるかのように語られることによっても生み出されているのではないだろうか。

 同調圧力の激しい日本の闇は深い。


 トップ画像は、Photo by Hugh Han on Unsplash を加工して使用した。

このブログの人気の投稿

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

読書と朗読を聞くことの違い

 「 本の内容を音声で聞かせてくれる「オーディオブック」は読書の代わりになり得るのか? 」という記事をGigazineが掲載した。Time(アメリカ版)の記事を翻訳・要約した記事で、ペンシルベニア・ブルームスバーグ大学のベス ロゴウスキさんの研究と、バージニア大学のダニエル ウィリンガムさんの研究に関する話である。記事の冒頭でも説明されているようにアメリカでは車移動が多く、運転中に本を読むことは出来ないので、書籍を朗読した音声・オーディオブックを利用する人が多くいる。これがこの話の前提になっているようだ。  記事ではそれらの研究を前提に、いくつかの側面からオーディオブックと読書の違いについて検証しているが、「 仕事や勉強のためではなく「単なる娯楽」としてオーディオブックを利用するのであれば、単に物語を楽しむだけであれば、 」という条件付きながら、「 オーディオブックと読書の間にはわずかな違いしかない 」としている。

あんたは市長になるよ

 うんざりすることがあまりにも多い時、面白い映画は気分転換のよいきっかけになる。先週はあまりにもがっかりさせられることばかりだったので、昨日は事前に食料を買い込んで家に籠って映画に浸ることにした。マンガを全巻一気読みするように バックトゥザフューチャー3作を続けて鑑賞 した。

敵より怖いバカな大将多くして船山を上る

 1912年に氷山に衝突して沈没したタイタニックはとても有名だ。これに因んだ映画だけでもかなり多くの本数が製作されている。ドキュメンタリー番組でもしばしば取り上げられる。中でも有名なのは、やはり1997年に公開された、ジェームズ キャメロン監督・レオナルド ディカプリオ主演の映画だろう。