スキップしてメイン コンテンツに移動
 

過去に学ばなければ、過ちを繰り返すことになる


 要請と強制の違いを理解できない大人が政治をやっているのが、この国の現実だ。そんなことは、警察、特に警視庁が、任意である筈の職務質問/持ち物検査への対応を、数人で取り囲むなどして、物理的且つ実質的に強要してくることが横行している時点で既に明らかだったし、「募る」と「募集」の意味が同じであることを理解できない男が、首相の座に7年以上も居座っていることを考えれば、この国の権力が平然と詭弁を弄することは、分かりきっていたことでもある。

  一体何のことを言っているのかは誰もが容易に想像できるだろう。コロナウイルス感染拡大に伴う休業要請に応じないパチンコ店の店名を、大阪府知事が公表した件のことを言っている。東京都も28日に公表すると言い出した。都や府は政府のガイドラインに沿って公表した/するとしている。
要請(ヨウセイ)とは - コトバンク によれば、要請とは、
必要な事柄を、その実現のために願い出て求めること。
 であり、つまり要請とは「お願い」である。「お願い」に強制力が果たしてあるだろうか。強制力があるのは要請ではなく「強制」または「指示」である。従わないと晒し者にするぞ!と脅すのは最早要請ではない。実質的な強制である。これは、令状のない職務質問/持ち物検査に応じるか否かはその要請を受けた者の任意である筈なのに、数人の警察官で取り囲む実質的な監禁によって応じなければ移動できない状況をつくり、強引に職務質問/持ち物検査に応じさせる警察の行為同様、明らかな権力の暴走だ。

 SNSを見る限り、「この状況で店を開けているパチンコ店の方が悪い、政府や自治体の行為は妥当である」と考え主張している人も決して少なくない。また、大阪府がこのようなことを行った背景には、「休業要請に従っていないパチンコ店がある」のような苦情が多数寄せられていることがある、という話もある(【新型コロナウイルス】異例の強硬措置 大阪府が“休業要請無視”店名公表する狙い|日刊ゲンダイDIGITAL)。


 だが、この一連のツイートが言っているように、そのようなことがエスカレートすれば、次に迫害されるのは飲食店かもしれない。また、パチンコ店同様に忌み嫌われ見下されることの多い存在の、性風俗店にも今も営業を続けている店は多く、次に槍玉にあげられるのは性風俗店かもしれない。そんな風にスケープゴートを作ってガス抜きをしても、結局次々に新しい生贄探しが始まるだけではないのか。国や自治体が憎悪を煽るようなことをしているのが恐ろしい。

パチンコ店6カ所公表 要請応じず営業継続―全国初、特措法45条・大阪府:時事ドットコム


によると、大阪府が昨日店舗名を公表したのは休業要請に応じていない6店のパチンコ店だが、休業要請に応じない店は他にも28店あるそうだ。なぜ全34店舗のうち6店舗だけを公表したのか。
 記事には
6店はいずれも100台以上のパチンコ台がある店舗
とある。つまり、一応大型店をまず公表し、それ以外は来週以降順次対応ということのようだが、なぜ6つの大型店を先に見せしめにしたのか、は全く合理性のある理由を思いつかない。公平な判断とは考え難い。また、
措法24条に定める緩やかな協力要請として休業を求めてきたが、45条による施設の使用停止要請に切り替え、店名公表に踏み切った
ともあるが、特に悪質な行為を行っていた、のような事実があるわけでもないのに、なぜ6店舗だけを45条による施設の使用停止要請に切り替えたのか、もよく分からないし、そもそも45条によって行える措置も、あくまでも使用停止の「要請」である。


 もう既に、「緊急事態宣言が出ているのに営業していたので頭にきた」という理由で、営業を続けていたスポーツクラブのドアを破壊する事案や、感染者の家に石が投げ込まれてガラスが割られたり、壁に落書きされたりする被害が出ている。
勿論、最も悪いのはそのような行為に及ぶ人達だが、国や自治体がその種の憎悪による暴力行為を誘発しかねないことをやるのを認めるべきだろうか。そのようなことに及ぶことに合理性があるとは、自分には全く思えない。
 今も、数少ない営業しているパチンコ店へ出向くような人達は、ギャンブル依存症である疑いもある。営業している店名の公表は寧ろ宣伝になってしまう恐れもあるし、前述のような憎悪犯罪を誘発するリスクもあり、メリットよりもリスクの方が大きいのではないか。本当に営業停止が必要なら、充分な損失補填策を講じた上で営業停止を指示するのが民主主義的な手続きではないのか。


 このツイートが言っている通り、兎に角今の政治は権力の濫用が過ぎる。また、


このツイートにもかなりの説得力がある。
 19世紀の英国人作家・サミュエル スマイルズは、著書・自助論の中で、
一国の政治というものは、国民を映し出す鏡にすぎません。政治が国民のレベルより進みすぎている場合には、必ずや国民のレベルまでひきずり下ろされます。反対に、政治のほうが国民より遅れているなら、政治のレベルは徐々に上がっていくでしょう。国がどんな法律や政治をもっているか、そこに国民の質が如実に反映されているさまは、見ていて面白いほどです。これは水が低きにつくような、ごく自然のなりゆきなのです。りっぱな国民にはりっぱな政治、無知で腐敗した国民には腐りはてた政治しかありえないのです。
と言っている。今、全ての日本人がこれを重く受け止めなくてはならない。でなければ、日本は20世紀第1四半期に犯した複数の過ちを、再び繰り返すことになりかねない


 トップ画像は、Photo by Yuvraj Singh on Unsplash を加工して使用した。

このブログの人気の投稿

あんたは市長になるよ

 うんざりすることがあまりにも多い時、面白い映画は気分転換のよいきっかけになる。先週はあまりにもがっかりさせられることばかりだったので、昨日は事前に食料を買い込んで家に籠って映画に浸ることにした。マンガを全巻一気読みするように バックトゥザフューチャー3作を続けて鑑賞 した。

同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになる

 攻殻機動隊、特に押井 守監督の映画2本が好きで、これまでにも何度かこのブログでは台詞などを引用したり紹介したりしている( 攻殻機動隊 - 独見と偏談 )。今日触れるのはトップ画像の通り、「 戦闘単位としてどんなに優秀でも同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになるわ。組織も人も特殊化の果てにあるものは緩やかな死 」という台詞だ。

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

風刺/ブラックユーモアと嘲笑の境界について考える

 よしもと所属のお笑い芸人・ 金属バットのネタが差別や偏見を助長する内容だと批判を浴びている ( 「猿としたらエイズ」「黒人とかな」 吉本芸人のネタにHIV陽性者ら批判「差別を強化」 BuzzFeed Japan )。数日前に、同じくお笑い芸人のAマッソのネタが人種差別的だと指摘されたことについて書いたが( 9/25の投稿 )、その時既に金属バットの別のネタも、人種差別的な認識があるのでは?と話題に上っていた( 「黒人が触ったもの座れるか!」吉本芸人のネタに批判 「Aマッソよりひどい」 BuzzFeed Japan )。

馬鹿に鋏は持たせるな

 日本語には「馬鹿と鋏は使いよう」という慣用表現がある。 その意味は、  切れない鋏でも、使い方によっては切れるように、愚かな者でも、仕事の与え方によっては役に立つ( コトバンク/大辞林 ) で、言い換えれば、能力のある人は、一見利用価値がないと切り捨てた方が良さそうなものや人でも上手く使いこなす、のようなニュアンスだ。「馬鹿と鋏は使いよう」ほど流通している表現ではないが、似たような慣用表現に「 馬鹿に鋏は持たせるな 」がある。これは「気違いに刃物」( コトバンク/大辞林 :非常に危険なことのたとえ)と同義なのだが、昨今「気違い」は差別表現に当たると指摘されることが多く、それを避ける為に「馬鹿と鋏は使いよう」をもじって使われ始めたのではないか?、と個人的に想像している。あくまで個人的な推測であって、その発祥等の詳細は分からない。