スキップしてメイン コンテンツに移動
 

フィルターの特性を知ることの重要性


 最近はスマートフォンで写真を撮る人の方が多いし、スマートフォン撮影がここまで一般化する以前から、コンパクト機を中心にソフトウエアでエフェクトをかける機能を備えたデジタルカメラは決して少なくなかった。撮影ソフトやデジタルカメラの機能を使って、ソフトウエア的に撮影画像を加工することを「エフェクトをかける」と呼ぶが、「フィルターをかける」と呼ぶこともある。


 カメラにおけるフィルターとは、今ではソフトウエア処理も含まれるが、従来はソフトウエア的な処理ではなく、レンズの前に装着して偏光させる物理的な装置、というか器具のことを指していた。色々なフィルターが存在しているが、NDフィルターは最も一般的なフィルターの一つだ。 NDフィルターは大雑把に言えばカメラ用のサングラスのようなもので、レンズに入ってくる光の量を減らすフィルターである。但し色彩には殆ど影響しないのが、安い/性能の悪いサングラスとの違いだ。
 カメラ撮影には、長い間シャッターを開けっ放しにする長時間露光という手法があり、その撮影方法を用いることで、動いているものだけを写真から消すことが出来たり、長い時間光を取り込むことで、暗い夜でも明るい写真を撮ったりすることが出来るのだが、日中屋外で長時間露光をすると、レンズが取り込む光の量が多過ぎて写真が真っ白になってしまう。カメラやレンズの性能がよければカメラだけでもそんなことを避けられるが、そんな設定が不可能な機種のカメラやレンズでも、NDフィルターを用いて光の量を減らすことで、日中の屋外で長時間露光撮影しても写真が真っ白にならなくて済む。
 カメラの場合レンズ自体も一種のフィルターで、レンズを変えると同じ場所・同じ撮影設定で写真を撮っても得られる映像は変わる。また、人間の目で見えているものの一部を切り取るという意味では、カメラという装置自体もフィルターの一種かもしれない。


 音楽の世界にもフィルターと呼ばれるものがある。ギターのエフェクターやDJミキサーのエフェクトの種類にフィルターと呼ばれるものがあるが、音にかけるエフェクトの中でフィルターと呼ばれる機能は、大抵ローパスフィルターやハイパスフィルターなど、特定の周波数帯の音を強調/低減する種類の、比較的単純な効果のことを指す。




 映像用のフィルター同様、広義ではエフェクト全般をフィルターと呼ぶべきなのだろうが、音楽の世界ではエフェクト/エフェクターの中に狭義のフィルターが存在するという状況になっている。また、映像の世界では「エフェクトをかける」「フィルターを通す」と表現する場合が多いが、音楽の場合はエフェクトもフィルターも「かける」と表現することが多い。


 映像や音楽にそれ程興味のない人にとって、最も身近なフィルターはコーヒーを淹れる際に用いる濾紙だろう。 最も多く流通しているのは紙製のフィルターだが、金属製や布製のフィルターもある。素材は違ってもその役割は同じで、コーヒーフィルターを通すことで、引いたコーヒー豆がコーヒーに混じって飲みにくくなってしまうのを防ぐ為の道具だ。お茶を入れる際に使う茶こしをフィルターとは呼ばないが、茶こしも謂わばグリーンティーフィルターである。因みに茶こしは英語で「tea strainer」 、コーヒーフィルターの場合は、紙製フィルターを「Coffee filter」、金属製/布製だと「coffee strainer」と呼ぶようだ。

 つまり、フィルターとは概ね、あるものは通すがあるものは通さないという役割のもの、仕組み、装置のことを指す。カメラで言えば、フィルターは主に映す像の形は変えずに色味や明るさを変えるものだし(中には像を変形させるものもある)、音楽では、高音や低音など一定の周波数帯を強調して音のニュアンスだけを変えるものだ。またコーヒーフィルターは、液体だけを通して個体と分離する為の道具である。
 何にせよフィルターを通せば、元の状態とは違ったものが出力されてくる


 以前にも書いたことがあるかもしれないが、カメラマンやジャーナリスト、そしてメディアは、自分の視覚や聴覚を、限定的にではあるが拡張してくれる存在である。カメラマンやジャーナリスト、そしてメディアが全く存在しなければ、多くの人は自分の周辺にあるもの・ことしか知ることが出来なくなる。カメラもジャーナリズムもなかった近代以前、多くの人にとっては自分の行動範囲が世界のほぼ全てだっただろう。戦後も1970年代頃までは国外の情報なんてほんの一部しか届かず、アフリカ人はみんな原始的な生活をしていると思っていた日本人は決して少なくなかったし、欧米人の多くは日本人=侍・忍者・芸者みたいな感覚だったんだろう。
 現在のように地球の裏側の状況が、完全にではなくてもそれなりに分かるようになったのは、撮影がより身近になって通信技術が発達したことや、報道がより身近になったことによって、情報が届きやすくなったからだ。戦後、ネット以前からどんどんそんな状況に向かってはいたが、発信する人の数が飛躍的に増えたという意味では、インターネットの普及と、撮影機器の高品質化と低価格化が及ぼした影響は、やはり計り知れない。

 だが、メディアがもたらす情報も世界の全てではなく、間違いなく切り取られた世界の一部である。これは、カメラマンやジャーナリスト、そしてメディアが、常に恣意的に情報を切り取って、あたかもそれが世界の全てであるかのように演出している、という意味ではない。勿論そのような恣意的な切り取りが行われ、あたかもそれが世界の全てかのように報じられることも決して少なくはないが。


 だが、意図的でなかったとしても、メディアが伝えるのはやはり世界のほんの一部である。全てのメディアに目を通すことが出来ても世界の全てを伝えることは出来ない。何故なら、カメラマンやジャーナリストが、全てのことに注目することは出来ず、その人の興味の向いたことが重点的に伝えられるからだ。
 それ以外が全く伝えられないわけではないが、カメラで言えば、ピントを合わせた被写体が他より強調され、他のものはピントがぼやけるし、またフレームにすら収まらないものだって多く、というか寧ろどんなにシャッターを切ろうがフレームに収まらないものの方が多い。つまり、私たちに伝えられる写真や映像は、フィルターやレンズ、そしてカメラ自体だけでなく、カメラマン・撮影者というフィルターを通した写真や映像でもある。それは映像ではなく文章や口頭表現を主な表現手法とするジャーナリストでも同じことで、結局、全く中立に全てを伝える事の出来る報道やメディアは存在しない
 つまり私たちが見ている、見せられているのは、カメラマンやジャーナリスト、そしてメディアというフィルターを通した情報である。






Banksy(@banksy)がシェアした投稿 -

 昨日メディア各社は、覆面アーティスト・バンクシーのこの作品を取り上げて、医療従事者を“ヒーロー”として描いた絵を発表した、と報じた。
ここに上げていない他の日本の大手メディアも軒並み取り上げていて、内容もほぼ同様だ。
 自分はこの作品を見て次のように感じたし、SNS上で同様の見解を示してる人は決して少なくない。だが、そのような見解を示したメディアは、自分の知る限りでは皆無である。


 ツイートに書いたような、この作品には、喉元過ぎれば熱さを忘れるで今だけもてはやされているという、美談化したがる風潮、美談の対象を次々に使い捨てにしていくメディア関係者や報道そのものへの皮肉も込められている、という見解は、所謂大手メディアとその関係者にとっては都合の悪い話だろうし、結局一部で示されているこのような見解もあくまで仮説でしかなく、確定的な要素はなにもないので、それをメディアが取り上げないことは、全く妥当性に欠いているかと言えばそうでもない。
 だが、美談と感じる人もいれば、皮肉が込められていると感じる人も、世の中には相応に存在しているのに、この件についてのメディアが美談一色になってしまっていることは、そのような皮肉が込められているのではないか?という仮説に、更に信憑性を感じさせる。 当該投稿に添えられた、「Game Changer」も、当事者のことをよく考えずに状況を変えていく、勝手な解釈で仕切ることも多いメディアへの皮肉のようにも思える。
 この件には、「メディア」というフィルターを通すとそのような美談に見えるが、大手メディアというフィルターを通さずに、バンクシーの投稿を直接見た人にとっては別の見え方もある、ということがよく表れている。


 但しこのような見解も、この投稿を書いている自分というフィルターを通した見解であり、これが世界の全てでも真理でもなんでもない。
 つまり、私たちが接している情報は、自分の目や耳、経験によって得た情報よりも、誰かの目や耳、経験を通して得た情報の方が確実に多く、自分が得る情報のほぼ全てが「誰か」というフィルターを通して自分に届いていることを認識しておく必要がある


 この投稿には、Photo by Chris Yang on Unsplash と、Photo by Steve Harvey on UnsplashPhoto by Wade Austin Ellis on Unsplash を使用した。

このブログの人気の投稿

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

あんたは市長になるよ

 うんざりすることがあまりにも多い時、面白い映画は気分転換のよいきっかけになる。先週はあまりにもがっかりさせられることばかりだったので、昨日は事前に食料を買い込んで家に籠って映画に浸ることにした。マンガを全巻一気読みするように バックトゥザフューチャー3作を続けて鑑賞 した。

写真修正と美容整形、個性と没個性、○○らしさ

 昔は、と言ってもそんなに昔でもなく、というか今も全然普通に使われる表現だが、風俗店や水商売店のサイトや店頭に掲げられる在籍女性の紹介写真で、あまりにも本人とかけ離れた写真、修正が過ぎる写真のことを 「パネマジ」(パネルマジックの略、パネル=写真、マジック=手品レベルの修正という意味) などと揶揄することがよくあった。というか今でもある。端的に言えば「別人が出てきた」というやつだ。  余談だが、美容家・IKKOさんの、何年も前の痩せていた頃の宣材写真が今も頻繁に使われているのを見ると「パネマジだなー」と思う。また、IKKOさんが出演しているコラリッチなんとかのCMで使用している映像が、明らかにが縦方向に伸ばして加工されており、そのCMを見る度に「やってるなー」と思ってしまう。美容系のCMだから少しでも綺麗な印象にしたいのは分かるが、逆に言えば「美容系商品のCMなのに、その商品以外で盛ったらダメだろう」とも思う。個人的には「嘘・大袈裟・紛らわしい」に該当する手法のように感じる。

大友克洋がAKIRAで描いたのは、2020東京五輪だけじゃない

 2020東京五輪招致、そしてそれが予定通りに開催されなかったことが、見事に劇中の設定と同じであることで知られる、大友 克洋のマンガ/アニメ映画・AKIRA。3巻の巻末にある次巻の予告ページでは、劇中で発行されている体裁の新聞がコラージュされていて、その中に「WHO、伝染病対策を非難」という見出しがあり、コロナ危機をも言い当てていた?という話も話題になったことは記憶に新しい。