スキップしてメイン コンテンツに移動
 

差別や偏見は人の本能だとしても


 昨日の投稿でも触れた #BlackLivesMatter というムーブメントが広がっている(ブラック・ライヴズ・マター - Wikipedia)北米で再び、警察官によって黒人男性が射殺される、という事件が起きてしまった。果たして射殺に妥当性があったのか、を判断できるだけの材料が今はまだないが、充分な材料があったとしても、このようなタイミングでどれだけの人がニュートラルに判断できるだろうか。

CNN.co.jp : 黒人男性が警官に撃たれ死亡、警察署長が辞任 米アトランタ


 1992年のロドニー キング事件やそれに伴うロサンゼルス暴動(ロサンゼルス暴動 - Wikipedia)や、OJ シンプソン事件なども(O・J・シンプソン事件 - Wikipedia)、事件の本質ではなく人種間、白人と有色人種、そして有色人種の中でも黒人とアジア系などの対立に主題が置き換わってしまった事案だが、この事件もそうなりそうな気がしてならない。


 人種間の対立は根深い。本人はカメルーンの父と母の間に生まれたが、後に両親が離婚、母親が日本人と再婚した為、カメルーン人と日本人の間に生まれた弟や妹がいる漫画家の星野 ルネさんが、 今朝こんな漫画をツイッターへ投稿した。


 自分やカメルーン人寄りの容姿だった弟は受け入れられたが、肌の色がアジア人寄りだった妹が、カメルーン人の子供たちから「白いやつらはアフリカで悪さをする」「俺たちのまちから出ていけ」「自分の国へ帰れ」と言われてしまったというエピソードだ。

 この漫画を読んで自分は次のようにリプライした。
最近は知らないけど、肌の色が違わなくても、転校生という出自の違いだけで排除される、という傾向は日本やその他の社会でもあった/ある。差別や偏見を人という動物の一部が持つのはある意味自然なことなのかも。だからこそ、常にその不合理を強調していく必要がありそう。
動物には概ね縄張り意識というものがある。自分のテリトリーと認識している場所へ他の個体が侵入してくると、たとえそれが同種であっても排除しようとする動物もいる。また、群れを作る動物の場合は、群れに属さない個体が近づけば排除しようとする場合もある。このように、多くの動物に排他的な側面があり、人間も間違いなく動物の一種なのだから、自分の属する集合に合致しない個体を排除しようとするのは、人間に自然と備わる習性なのかもしれない。
 少し前に、白人の子供と黒人の子どもが久しぶりに会って再会を喜びあう様子の動画を根拠に、生来差別的な人などいない、と主張するツイートを見た。確かにそうかもしれない。だが、他の動物だって生まれて間もなくは他の個体が近づいてきても排除しない。個体差はあるが好奇心旺盛に近づく場合も多い。つまり動物だって生まれてから間もなくは、概ね排他的な行動はしない。だが、成長につれて排他性が備わってくる。勿論そこには親など後天的な影響もあるだろう。それでも、定義にもよるだろうが、自然に排他性が身につく、とも言えるだろう。
 だが、人間の排他性も自然なことなので受け入れるべきだ、という話ではない。もしそう考える人がいるのなら、その場合自分が排除の対象とされても文句は言えない。また、そんな考え方だといつまでも争いはなくならない。つまり戦争がなくなることはない。人間の排他性も生まれながらにして持つ本能だとしても受け入れることなどできない。何故なら、本能だから受け入れるべきなら、しばしば現れる殺人を楽しむような人達も、それは彼らの本能だから受け入れるべき、ということにもなりかねないからだ。


 理性の強さは間違いなく他の動物とは異なる人間の特質だ。本能のままに行動することが重要な場合も確実にある。 だが、本能的な行動を抑制して理性を重視すべき場面も少なくない。というよりも、他者と共生するのであれば、寧ろ理性を重視すべき場面の方が多い。物欲のままに欲しいものを盗んででも手に入れる、性欲のままに誰かれ構わずその対象にする、快楽を優先して酒におぼれる、睡眠欲を優先し遅刻を厭わない、そんな人がいたらどうだろうか。

 差別をしたり、偏見を持ってしまうことが人の本能なのだとしても、だから許されるべき行為なんて間違っても言えない。


 トップ画像は、Gordon JohnsonによるPixabayからの画像 を加工して使用した。

このブログの人気の投稿

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになる

 攻殻機動隊、特に押井 守監督の映画2本が好きで、これまでにも何度かこのブログでは台詞などを引用したり紹介したりしている( 攻殻機動隊 - 独見と偏談 )。今日触れるのはトップ画像の通り、「 戦闘単位としてどんなに優秀でも同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになるわ。組織も人も特殊化の果てにあるものは緩やかな死 」という台詞だ。

フランス人権宣言から230年、未だに続く搾取

 これは「 Karikatur Das Verhältnis Arbeiter Unternehmer 」、1896年ドイツの、 資本家が労働者を搾取する様子を描いた風刺画 である。労働者から搾り取った金を貯める容器には、Sammel becken des Kapitalismus / 資本主義の収集用盆 と書かれている。1700年代後半に英国で産業革命が起こり、それ以降労働者は低賃金/長時間労働を強いられることになる。1890年代は8時間労働制を求める動きが欧米で活発だった頃だ。因みに日本で初めて8時間労働制が導入されたのは1919年のことである( 八時間労働制 - Wikipedia )。

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

馬鹿に鋏は持たせるな

 日本語には「馬鹿と鋏は使いよう」という慣用表現がある。 その意味は、  切れない鋏でも、使い方によっては切れるように、愚かな者でも、仕事の与え方によっては役に立つ( コトバンク/大辞林 ) で、言い換えれば、能力のある人は、一見利用価値がないと切り捨てた方が良さそうなものや人でも上手く使いこなす、のようなニュアンスだ。「馬鹿と鋏は使いよう」ほど流通している表現ではないが、似たような慣用表現に「 馬鹿に鋏は持たせるな 」がある。これは「気違いに刃物」( コトバンク/大辞林 :非常に危険なことのたとえ)と同義なのだが、昨今「気違い」は差別表現に当たると指摘されることが多く、それを避ける為に「馬鹿と鋏は使いよう」をもじって使われ始めたのではないか?、と個人的に想像している。あくまで個人的な推測であって、その発祥等の詳細は分からない。