今は興味がなくなってしまったが、G1くらいだけだが20代の頃は馬券を買っていた。儲けたいというよりも、予想をしてレースを見るのが楽しかった。だから本当は馬券は買わなくてもよかったのだが、自動車やバイクレースと違って投票券が買えるんだから買っておこう、みたいな気分だった。
競馬のテレビ中継と言えばフジテレビだ。今はみんなのKEIBAという番組になっているようだが、当時放送していたのはスーパー競馬だった。現在もみんなの競馬に解説として出演している競馬評論家の井崎 脩五郎さんは、その頃からフジテレビの競馬中継番組に出演しており、予想コーナーもあった。だが、井崎さんの予想は当たらないことで有名だった。
友達との間で「井崎の予想は、自分の好きな馬に都合のいいデータを探してるだけだから当たらない」なんて話していたことを思い出して、果たして本当にそうだったのかを確認する為に、井崎脩五郎 - Wikipedia を見てみると、
「予想が的中すると苦情が来る」ともいわれ、井崎の子息からは「こんなの来るわけないのに、なんでこんな予想するのかわからない」と言われたこともある。
データ予想に関しては「予想データは突き詰めていくと全ての馬が勝つ可能性があることになり、結局、最終的には自分に都合のいいデータを取捨選択することになる」と語っている。
という記述があり、その記憶、認識は概ね間違っていなかったのだろう。
ツイッターのタイムラインにしばしば「テレビ局/番組スタッフと称する人から電話がかかってきて、ある件についてコメントを求められたが、無報酬、しかも筋書きありきなようで、欲しいコメントに誘導しようとする、応じなかった邪険にされコメントも使われなかった」なんて話が回ってくる。
街の声的な映像を見ていても「こんなのディレクターの欲しいコメントが撮れるまで撮ってるだけでしょ?」という気しかしないし、仕込みなのか、テレビに映りたくて渋谷や銀座に頻繁に待機している人なのかは分からないが、その種の映像でよく見かける人なんてのもいるようだ。仕込みだろうが待ち構えている人だろうが、どちらにせよ制作者に忖度したコメントをする恐れが高い。
全部とは言わないが、テレビの情報番組も結局、井崎氏の競馬予想みたいなものだ。台本・筋書きありきで都合のよいデータを集めて番組が作られているとしか思えない。情報バラエティなどならそれでもいいのかもしれないが、政治や社会問題等を扱う報道よりの情報番組がそれでは困る。
井崎氏の競馬予想みたいなのはテレビだけではない。現首相や現政権もその類である。コロナ感染再拡大する最中、御用学者に「旅行自体が感染を起こすことはない」なんて言わせて、旅行促進政策を強行しているのに、緊急事態宣言について「再発令回避に全力を挙げる」ともしている。つまり彼らの中では、旅行促進政策を行っても感染は広がらないということになっている。
また、今すぐに対応が必要なはずなのに、感染が収束した段階で、新型コロナ対策の特別措置法の改正を検討する、とも言っている。これは法改正の検討が今すぐ必要となれば開くのが筋である国会を、責任の追求から逃れる為にすぐに召集したくないという気持ちの表れだ。つまり国会を開きたくないが為に、今はまだ緊急事態と言えるような状況ではない、と言い張っている。
- 尾身氏、旅行自体は感染起こさず 3密避ければリスク低い:東京新聞 TOKYO Web
- 安倍首相、緊急事態宣言回避に全力 「4月発令時の影響甚大」:時事ドットコム
- 首相「GoTo」なお推進を表明 「帰省の一律自粛求めず」 | 共同通信
これを井崎式競馬予想と言わずに何と言おうか。つまり、昨今メディア、特にテレビ報道は政府に過剰なまでに忖度していると言われることが多いが、テレビも現首相/現政権も井崎式競馬予想を厭わない勢力であり、それらが意気投合するのはある意味自然なことなのかもしれない。
NZ、100日連続で市中感染ゼロ達成 国民はコロナ前とほぼ同じ生活 写真2枚 国際ニュース:AFPBB News
この記事を読んで「首長がまともな国はいいな…」と羨ましく思った。しかしこれはニュージーランドの有権者がまともな政治家を選んだ結果でもある。民主主義とはそういうシステムだ。まず有権者がまともにならないと、日本でまともな首相は実現しない。
例えば、元編集者で現在はフリーライターの武田 砂鉄さんがこんなツイートをしている。
18年「粘り強く双方の橋渡しに努め、国際社会の取組を主導していく決意」
— 武田砂鉄 (@takedasatetsu) August 12, 2020
19年「核兵器国と非核兵器国の橋渡しに努め、双方の協力を得ながら対話を粘り強く促し、国際社会の取組を主導していく決意」
20年「立場の異なる国々の橋渡しに努め、各国の対話や行動を粘り強く促す」https://t.co/kPEAZNXhGJ
これは安倍が広島の平和祈念式典での挨拶に用いた表現の抜粋だ。8/10の投稿でも、東京新聞の記事「「核の傘」に政府依存、核兵器禁止条約に触れず 長崎原爆の日、首相演説「橋渡し」繰り返すだけ:東京新聞 TOKYO Web」に触れたが、それに関する直近3年の表現である。
2018-19年は「決意」という言葉が用いられている。つまり、2018年に決意した筈なのに、2019年にもまた決意しているのだ。では一体2018年は何をしていたのか。2018年は「決意した」といいつつ、実は決意していなかったのではないか?でなければ2019年にまた決意を表明する筈がない。武田さんのツイートでは、恐らく文字数制限の都合上はぶかれているが、今年は「立場の異なる国々の橋渡しに努め、各国の対話や行動を粘り強く促すことによって、核兵器のない世界の実現に向けた国際社会の取組をリードしてまいります」と言っている。つまり、「核兵器のない世界の実現に向けた国際社会の取組をリードする決意です」としても意味に大差は生じず、決意という表現は用いていないが、今年もやはり決意しただけだ。つまり、少なくともこの3年間、
安倍は決意しかしていない
と言っても過言ではない。
政治家とは、首相とは、決意だけすればよい簡単なお仕事なのだろうか。本来は決意表明したらそれを実現しなくてはならない。決意表明したことを実現出来なければそれは公約違反だ。但し、安倍が決意しているのは「対話を促す」ことであり、核兵器の廃絶ではない。しかし、安倍が各国の首相に対話を強く促したという話を誰か聞いたことがあるだろうか。少なくとも自分はない。つまり、安倍は決意したにもかかわらず対話を促すことすらしていない恐れが非常に強い。
実行しようがしまいが、決意表明するだけで票が得られるなら、政治家が口先三寸で都合のいいことばかり言うようになるのは当然の成り行きだ。決意表明だけで実行が伴わない政治家・政党に票を投じることは、「消防署の”ほう”からやってきました」という消火器の押し売りに騙されて粗悪品を購入するようなものだ。
やはりまともな新型コロナウイルス対応、まともな首相を望むのなら、まず有権者がまともにならなくてはならない。