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情緒と従属が、論理と合理よりも優先される幼い社会

 気が短い子にジグソーパズルをやらせると、最初は楽しそうにしていても飽きてくるとイライラし始めて、正しくないピースを強引にはめようとしたりする。「気が短い子」と書いたが決して子どもに限らず、そのような性質を残したまま大人になってしまう人も結構多い。


 SNSでしばしば見かけるのは、自分の主張に賛同以外の反応があると、それだけでイライラしてあからさまに攻撃的な反応をする人達だ。例えば口汚く罵られたならそのような反応になることも理解はできる。だが決してそうではない、反論や批判ですらなく単に意見が異なるというだけで攻撃性を発揮しているケースが少なくない。その種の人達は大抵「何もしてないのに反論された、中傷された」のような感情を抱いている。
 ネットへ自分の考えを書き込む行為は、家でノートに書くのとは違い世界中の人が見られる状態にする行為だ。コメントに対して反応されることが前提のシステムであるSNSでは、当然自分の考えとは異なる反応が返ってくることもある。つまり反論されるのは当然のことだ。また、反論や批判=中傷 という認識も確実に間違いである。そもそも反論や批判ですらない反応に対して中傷しているのは、喧嘩を売り始めたのはどう見ても自分の方なのに。

 少し前に煽り運転についての記事のコメント欄が「何もしていないのに煽られた」という人ばかりで驚いたことがある。走行車線を法定速度で走っていただけ、で果たして煽られるだろうか。そのようなことは全く起こり得ないとは言わない。だが、基本的にそんなことはまず起きない。煽る側だって何かしらにイラっとするから煽るのだ。例えば、煽り運転が社会問題として注目を集めるきっかけとなった東名高速の事件では、サービスエリアで所定の場所以外に駐車していたことを注意されたことが煽り運転の動機だった。短絡的な人は「煽られたくなければ注意するなってこと?」なんて言いだしそうだが、そんなことは全く言っていない。
 煽る方が悪いか煽られた方が悪いかはケースバイケースだが、「何もしていないのに」ということはほぼない。十中八九何か煽り運転に至る原因がある。個人的に「何もしていないのに」という人の半分かそれ以上は、走行車線が空いているのに追い越し車線を走り続け、後ろから速度の速いクルマがきても譲らないから煽られる、と考えている。そのような人が、追い越し車線を、法定速度でかもしれないが、走り続けているのに「何もしていないのに」と言っているケースがかなり多そうだ。確かに法定速度を守る義務が全てのドライバーにある。しかし、走行車線が空いているのに追い越し車線を走り続けることもまた違反行為だ。つまり多くの場合「何もしていないのに」は事実に反する。そのような行為に限らず、合流で1台ずつ譲り合うという、国によっては法律で定められているようなマナーに反する強引な割り込みをしている場合などもあるだろう。

 後者の指摘をすると、「日本では合流で1台ずつ譲り合うという法律はないから早い者勝ち」と言いだす人がいる。ルールではないから守らなくてもよい、それで煽られるのはおかしい、と言うのだ。いやいやどう考えてもそれは「何もしていないのに」ではない。勿論煽り運転を肯定/容認するつもりはないが、煽られる原因を自分が作っているじゃないかと思う。
 法律で規制されていなければやってもいい、法律で規制されているからやってはいけない、という考え方は、ある意味で法治の原則でもあるが、その考え方が絶対的に正しいかと言えば、全くそんなことはない。勿論遵法は大事で、大前提ではあるものの、ルールはルールだから守らなくてはならないのでもないし、ルールになければ何をやっても構わないということでもない。果たしてそのルールが適切か、を考える視点はも、法治を維持する上で確実に重要な要素だ。

 このツイートから続くスレッドを発端に、制服は子どもを貧困問題から守ることができると言うがそれは本当なのか、という話が話題になっていた。元ツイートにあるように、それでは多くの小学校が私服であることの説明がつかないし、家庭の裕福さで差がつかないように、というのであれば、何万円もする制服である必要性はどこにもない。成長でサイズが合わなくなったり汚れが生じた際の買い替えが大きな負担にならない、ユニクロやしまむらレベルのジャージで充分、というか寧ろその方が理にかなっているはずだ。toggetterにもそのような反応がまとめられている。
 前述のルールはルールだから守れという発想は、日本では特に学校教育の中でブラック校則、ブラック部活を通して浸透する。昨今異論を呈す人も増え始めた為に、徐々に減ってはいるものの、誰も合理性を説明できない理不尽な校則や、「これがこのクラブの伝統、嫌なら辞めろ」という風潮が間違いなく未だに多くの学校・部活に残っている。

 このツイートも、日本の学校教育の不合理性を物語っている。このツイートで見える答案用紙の部分だけでは、この画像の印象が実態に即していると断定できないものの、似たようなツイートは多く見られ、日本の学校には模範解答以外は正答としない教員が少なくないことは間違いない。このツイートの例はその極端なケースであり、最早この採点は正答ではなく、出題者への忖度を求めていると言っても過言ではない。子どもの自由な発想の芽を摘み、忖度させようとすることは果たして教育と呼べるのか。そんなのは教育と呼べるような代物ではない。
 このような教育の結果生み出されるのが日本人の約半数を占める、自分の頭で考えない、というか、自分の頭で考えることができず「テレビで言ってるから、誰々がそう言ってたから」などの理由でしか判断できない有権者だ。

 先日また、とある芸能人が大麻事犯で逮捕されたという報道があった。以前に比べればはるかに、「そんな報道必要ある?」という声も増えてはいるものの、報道各社の大半は未だにまるで凶悪な犯罪に手を染めたかのように取り上げる。その影響か、世界的には間違いなく「大麻の危険性」の認識は改められ解禁に向かっているのに、日本では未だに「ダメ。絶対。」の妄信から抜けられない人が多い。
 ダメ。絶対。を妄信する人達の主張は大きく分けて2種類ある。1つは最早過去の遺物と言っても過言ではないゲートウェイドラッグ論と、この投稿のテーマである「ルールはルールだから守れ」である。ゲートウェイドラッグ論はハッキリ言って当初から破綻している。何故なら大麻がゲートウェイドラッグなら、アルコールやタバコも同様なのに、それらはOKというのは全く道理に反するからだ。ゲートウェイドラッグを主張する人が大麻同様にアルコールもタバコもダメと言っているなら理解もできるが、そんな人はほぼ見かけない。

 プロラッパーでグラビアディガーを自称する呂布カルマさんがこんなツイートをしていた。

日本で大麻を目の敵にしている人の多くは、大麻吸引の経験がないのは当然で、吸引している人の話を聞いたこともない人達だ。以前からオランダなどに行けば大麻文化に触れることはできたし、現在は他にも触れられる地域が沢山ある。なのに、現状を見ようともせずに、一体なぜそんなに敵視するのだろう。自分の頭で考えることができず「テレビで言ってるから、誰々がそう言ってたから」などの理由でしか判断できない人がその大半だろう。
 今日はこんなツイートも目に付いた。

「ルールはルールだから守れ」が如何に説得力に欠けるかは、ここまでに書いてきた通りである。例えばマンガ愛好家は、1970年代以前のような「マンガは子供の教育上良くない」という風潮が再び盛り上がり、マンガ全般が18禁になるにとどまらず法律で全面規制されたとして、「いい悪いじゃなくて法律で規制されているんだから悪」とされたらどうだろう。マンガは単なる例であって、自分の趣味や愛好するものが何かの理由を付けられて同様に法規制されたらどうだろう。「ガソリンエンジンは環境を破壊するから全面禁止」「犬は狂犬病を媒介する恐れがあるから飼育不可」「テレビは視力低下につながるから販売禁止」など、理由は何でもありだ。

 この数日度々取り上げている、

多くの日本人が持つ 「長い物には巻かれておくのが賢い生き方、大人の振舞い」 みたいな認識があるが、それは全く賢くなく、実際には、 「率先して長い者には巻かれるのは奴隷志願者の生き方、振舞い」 と言った方が実態に即していると思う。

という話は、この投稿にも通じるものだ。長い物には巻かれろが正しい、という風潮が蔓延る社会には進歩は起きない。起きたとしてもかなりそのスピードは遅い。今までの状態・考え方・習慣などを根本から変えようとはしない態度や、正常な状態を保ち、それが損じないようにすることを保守と呼ぶが、正常でない状況を保つことは保守とは言えない。保守とは従属を意味する表現ではない。
 論理を紡ぐのは、相応しいパズルのピースを探して嵌めていくような作業だ。今の日本では、短気な人がやりがちな合わないピースを強引に嵌めようとする行為が目立つ。そんな風に、ジグソーパズルのルールを無視するように、論理性の担保という議論の基本ルールは無視するのに、一方でルールはルールだから守れと言っている人も多く、それはとても滑稽で、そのような人の多さは日本社会の幼稚さ・未熟さの証拠だろう。

 トップ画像は、Photo by Ryoji Iwata on Unsplash を使用した。

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