1990年代の中盤頃、ストリームファッションはオーバーサイズが席巻していた。ヒップホップを背景にした黒人系のファッションでは、オーバーサイズが好まれる印象が今でもあるが、白人系でも、1980年代終盤から、スケーター御用達のスラッシャーマガジンの紙面などに、オーバーサイズを好むスケーターが多く登場し、当時は兎にも角にもオーバーサイズだった。
その頃 GUESSのバギーパンツが大人気で、町にはドカン(ブッとい改造制服のズボンをこう呼んでいた)のようなジーンズを履いた若者が溢れていた。所謂腰履きが現れたのもその頃だった。
このGUESSというブランドは、1980年代にカリフォルニアで生まれた比較的若いブランドである。GUESS JAPAN公式サイトによれば、GUESS JAPANの設立は2013年だそうで、あの大人気だった1990年代のバギーパンツのほとんどは正規輸入ではなかったのだろう。同ブランド名の由来は、創業者のマルシアーノ兄弟が、ロサンゼルスで目にしたマクドナルドの看板の、「GUESS what's in new Mac? / 新しいマックのバーガ―には何が入っているのかな?」というコピーだそう。
このコピーをもっと馬鹿正直に訳すと「新しいマックに何が入っているか推測して」となる。つまり、GUESSとは推測(する)という意味だ。Guessの推測に堅苦しさはなく、何となく、何の気なしに○○と思うのようなゆるいニュアンスだ。
昨今ツイッターで「書いていないことを勝手に解釈するな」というような言説をしばしば見かける。ツイッターは140文字の表現というシステム且つ基本的には独り言であり、曖昧な表現が生まれやすい環境にある。つまりそれは誤解が生まれやすいとも言える。
「書いていないことを勝手に解釈するな」と言っている人の多くは、大多数が主張の意図を解釈できるようなツイートを念頭に、あまりにも無理矢理で妥当性があるとは言えない解釈をする人、その解釈についてそのように言っており、大体においてその主張には共感するし、スゴイ曲解をする人がツイッター上には多くいるなとも思う。
しかし、書いていないこと推測すること全般が不適切とは間違っても言えない。前述したように、ツイッターは140文字の表現というシステム且つ基本的には独り言であり、曖昧な表現が生まれやすい環境にある。つまり曖昧な表現について、どのような意味で発せられた主張なのかを、その人が普段どのようなツイートをしているのか、ツイッター以外でどのような振舞いをしているのかななどを加味し推測するのは、とても自然である。
例えばその推測が、Guessが意味するような、根拠は特にないけど何となくそう思う、のような推測なのに、あたかも「そうだ!そうに違いない!」のような表現をすれば、それは苦言を呈されるのも当然だが、妥当性のある根拠に基づいて書かれていない部分を推測し補完して反応するのは、全くおかしいことではない。これついても、「書いていないことを勝手に解釈するな」の意を適切に解釈出来ず、書いていないことは一切推測してはいけないと曲解して振りかざす人もいる。
「それはキリトリだ」と言えるのは、全体の文脈とは異なるニュアンスに解釈できるような部分だけを抽出する行為に対してだが、一部には、全体の文脈を象徴する部分を抽出している行為に対しても「それはキリトリだ」と言いだす人がいる。それの新しいバージョンが「書いていないことを勝手に解釈するな」であり、今はそれが目立つ状況だ。
現在開催されているテニス全米オープンで、BLMに関するメッセージを積極的に発信している大坂 なおみ選手をスポンサードする日本企業の一部から
上まで勝ち上がっている時にやらなくてもね。できればテニスのプレーでもっと目立ってほしいんですけど……
黒人代表としてリーダーシップをとって、人間的にも素晴らしい行為だとは思うが、それで企業のブランド価値が上がるかといえば別問題。特に影響があるわけではないが、手放しでは喜べない
人種差別の問題と本業のテニスを一緒にするのは違うのでは
などの声が聞こえている、とする記事を毎日新聞が掲載している。
記事には、どのスポンサー企業の関係者がそう言っているのか、という記述はない。名前を出さないことを条件で取材に応じたのか、それとも記者が自発的に名を伏せたのかは分からない。しかしどちらにせよ、そのような発言は適切ではない、という認識があることはほぼ間違いない。名を伏せればこんなことが言える人が、大坂選手をスポンサードしているのかと思うと、彼女が不憫でならない。
このような記事が報道された以上、彼女をスポンサードする日本企業は、すぐにでも立場を明確にするべきだ。でなければ、日本国内ではスルーされたとしても、世界的な信用を失う恐れがある。信用などいらないと言うのなら話は別だが。
この場合も「誰が、どこの企業の関係者が、そう言ったのかは書いてないのだから勘繰るべきでない」という人もいそうだが、BLMのような社会問題に関して、立場を表明しないのは決して中立でも公平でもない。差別や偏見に対して意思表示明確にしないのは、消極的な加担にも等しい。たとえ記事にあるような主張を関係者がしていなくとも、明確に反差別/偏見を表明していなければ、そのように考えているのではないか?と受け止められても仕方がない。
「書いていないことを勝手に解釈するな」は一理ある話ではある。しかしそれはあくまでも、あまりにも強引な解釈と根拠のない断定に関しての話であり、書いていない行間を読むのは、文章を読む/解釈する上で確実に必要なことである。
トップ画像は、Photo by Roberto Nickson on Unsplash を加工して使用した。