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オリンピックの狂気

 日本は、というか東京都、日本政府、JOC、組織委員会、そしてIOCは、いつまで来年オリンピックをやるつもりでいるのだろう。組織委員会の会長代行を務める遠藤 利明元五輪相は6/5に、開催可否は2021年3月頃までに判断すればいい、という見解を示していたが、その時点までに開催に向けて準備していれば、その分のコストや時間が無駄になる。中止の判断は早ければ早いほど影響を抑えられるのは明白だ。


五輪開催可否の判断「来年3月ごろまでには明確に」 - 東京オリンピック2020 : 日刊スポーツ

 安倍が「ウイルスに打ち勝つ証しとして完全な形で(東京オリンピック開催を)実現することにG7の支持を得た」とぶち上げたのは3/17のことだった。因みにこの時はまだ延期には触れておらず、この発言は、2020年開催を示唆しているようでもあり、延期した場合でも、観客を入れる・規模縮小しないなど完全な形で実施する、ということを示唆しているようでもあった。安倍はどうとでも取れる曖昧な発言をしばしばしてきたが、これもその一つだ。

【ノーカット】新型コロナ G7緊急テレビ会談後会見

 2020年に開催予定だった東京オリンピックの開催延期が発表されたのは、それから約1週間後だった。「遅くとも2021年夏までに開催」「IOCバッハ会長も100%同意」と安倍が発表した(東京五輪・パラ、「1年程度」の延期決定 「東京2020」の名称は維持 - BBCニュース)。五輪開催の主体は国でなく都市、つまり東京都のはずなのに、都知事でも組織委員会でもなく、なぜこんなにも首相がしゃしゃり出るのか。それもかなり奇妙だった。

 安倍と日本政府はその頃、何かにつけて「人類が打ち勝った証として来年の東京五輪を完全な形で開催」とアピールした。日本テレビが5月に「新型コロナウイルスに関連した国連のハイレベル会合に、日本の安倍首相がビデオメッセージを寄せ、「人類が打ち勝った証として来年の東京五輪を完全な形で開催する決意だ」などと述べました」と伝えている。

安倍首相「東京五輪を完全な形で開催」|日テレNEWS24

 しかし時事通信は6/12に、「東京五輪・パラリンピックをめぐり「新型コロナウイルスに打ち勝った証しとして完全な形で開催する」と繰り返してきた政府が、「完全な形」の定義を修正し始めた。新型コロナの影響で大会簡素化する方向となり、従来の説明通りの「完全な形」は難しくなったため」と報じている。

政府、「完全な形」の定義修正 東京五輪簡素化に合わせ:時事ドットコム

 日本テレビの記事には、

安倍首相「最もぜい弱な人々を取り残さないよう『人間の安全保障』の確保が必要です」

そして時事通信の記事には、

首相はこの後、「完全な形」の意味を国会で問われ、「規模を縮小せず、かつ観客に一緒に感動を味わってもらうということだ」と説明していた。しかし、大会簡素化が取りざたされるようになって以降、政府は大会規模などに触れなくなった。五輪中止を避けるため、感染防止対策などが議論できる環境を整える狙いがあるようだ。

とある。

 昨日朝日新聞は、「仮に感染症によって十数カ国が参加できなくても、数の上から言えば、五輪として成立する」と、前五輪相で自民党総務会長の鈴木氏が述べたと伝えた。規模縮小しない完全な形での開催、脆弱な人を取り残さないようにするなどの話は一体どこへいったのか。

「一部が不参加でも五輪は成立」 鈴木・前五輪相が発言 - 東京オリンピック:朝日新聞デジタル

 JOC Webサイトの「JOC - オリンピズム | クーベルタンとオリンピズム」(アーカイブ)と題したページに、

クーベルタンの言葉として有名な「オリンピックで重要なことは、勝つことではなく参加することである」は、実は彼の創作ではありません。英米両チームのあからさまな対立により険悪なムードだったロンドン大会(1908年)中の日曜日、礼拝のためにセントポール大寺院に集まった選手を前に、主教が述べた戒めの言葉でした。 「オリンピックの理想は人間を作ること、つまり参加までの過程が大事であり、オリンピックに参加することは人と付き合うこと、すなわち世界平和の意味を含んでいる」と考えていたクーベルタンはこの言葉に感動し、英政府主催の晩餐会でこの言葉を引用して「人生にとって大切なことは成功することではなく努力すること」という趣旨のスピーチを行いました。以後、オリンピックの理想を表現する名句として知られるようになりました。

とある。クーベルタンは近代オリンピックの礎を築いた人物であり、「参加することに意義がある」は近代オリンピックの理念の一つだ。そしてそれをJOCのサイトでも紹介している。しかし自民党の前五輪相が「一部が不参加でも構わない」と言っているのである。もう理念もへったくれもなく、ただただ開催したいだけとしか言えない。

 更には、IOC副会長まで「東京五輪は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックに関係なく開催され、同感染症を「克服した大会」になるだろう」と述べたそうだ。

東京五輪は「新型コロナに関係なく開催」 IOC副会長 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

 オリンピックの中止は戦争以外に一度もなく、だから東京オリンピックは新型ウイルスに関係なく行われ、来年の7月23日に開幕する。という見解を、国際オリンピック委員会副会長のジョン コーツ氏が示したらしい。更にコーツ氏は、

東京五輪はコロナウイルス感染症を克服した大会となり、トンネルの終わりに見える一筋の明かりになるだろう

とも述べたそうだ。
 新型ウイルスの感染が収束していようといまいと開催するのなら、なぜその大会がウイルスを克服したことを象徴する大会になるのか。あまりにも支離滅裂というか、最早正常な思考が出来ない程何かしらの病に侵された状態なのではないか?という疑いすら感じる。そんな人物がIOCの副会長なのだ。

 オリンピックとは一体何のための、誰のための大会なのか。理念も蔑ろ、論理的な大義名分もない。ただただ開催だけが目的化している。しかもコンパクト五輪を標榜し、誘致の際に当時の知事が「世界一カネのかからない五輪」と豪語していた東京オリンピックだが、

東京オリンピックの開催経費は大会史上最大だとする研究結果を、イギリス・オックスフォード大の研究チームが発表した。

東京五輪、開催経費は史上最大 英オックスフォード大の研究 | 共同通信

 以前は頻繁に「アスリートファースト」なる標語も掲げられていたが、昨夏頃から猛暑対策や競技が行われる東京湾の水質改善が難しいということが話題になると、その類の声も聞こえなくなり、アサリを巻くとか、朝顔で涼しさを演出するとか、馬鹿げたことを関係者が言いだす惨状が広がった。つまり全くアスリートファーストではないことが露呈した。

 そんな大会を開くことに一体何の意味があるだろうか。さっさと中止した方がいいとしか思えない。利権が絡んだ関係者やテレビ局、新聞社などはそんなことは口が裂けても言えないのだろうが。

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