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小さくなくてよかったね。

 小さくなくてよかったね。と言うと大概の男性は、自分のアレは”小さくない”ではなく”大きい”と言われた、と拡大解釈するそうだ。以前付き合っていた風俗で働いていた経験のあるコが言っていた。男同士の与太話で股間のことが話題になることはよくある。あいつのアレは小さい、かぶってるなどの揶揄は定番ネタで、未だにバラエティー番組でもそんなやりとりを目にする。


 誰かを股間をサイズ等で茶化すような会話を、昨今はセクハラだと言う向きもある。勿論場合によってはセクハラに該当するだろうが、全くタブー化するべきかと言えばそうは思わない。ただ、誰もが見るようなテレビ番組でやっているのを見ると下品だなと感じるし、ふさわしくないようにも思う。
 小さくなくてよかったね。と言われると、大概の男性が自分のアレは”小さくない”ではなく”大きい”と言われたと拡大解釈するのは、やはり自分のアレが小さいとは思いたくない、認めたくないからだろう。風俗嬢の中には客のアレのサイズがどんなに小さかろうが「大きい」とリップサービスする者もいるが、彼女は、明らかに小さいアレを「大きい」と嘘を吐くことに抵抗があり、また中には自分のアレは小さいと劣等感を持って強く認識している客もおり、そんな客に「大きい」と言うと馬鹿にしたと思われ、取り繕うのも面倒だし取り繕う為に更に嘘を重ねるのも嫌だから、「大きい」ではなく「小さくない」と言っていた、という話だった。

 大概の男性が自分のアレは”小さくない”ではなく”大きい”と言われたと拡大解釈する、と分かった上で言う「小さくなくてよかったね」は、誤解を招く発言ではなく、誤認させることを目論んだ表現だろう。勿論彼女が、そんな意図はない、と言い張れば誤解を招く発言ということになるだろうが、前述の通り、彼女はそんな誤認が生じることを事前に認識し、更にその誤認によって客の好感を得ることを目的にしていたのだから、明らかに後者である。

 世間に顔と名前が売れている人達の中には、ツイッターのリプライ機能を頑なに用いない人がいる。どういう理由でそうしているのかは定かでないし、理由は1つではないのだろうが、関連しているであろう自分のツイートすらスレッド化せず、他人のツイートに言及する際も全て単発の引用リツイートで行う人が結構多い。
 そのようなツイートの仕方をしておいて、個別のツイートに関して言及すると「前後のツイートを見ずに1つのツイートだけで判断するな」なんて言ってくる人がいる。だったら関連ツイートをスレッド化しておけよという感しかない。以前にも書いたことがあるが、1つのツイートで言いたい事が書けないなら、そしてその真意を伝えたいなら、誤解されたくないなら、ブログなどに詳細をまとめてリンクを貼っておく、書ききれない部分を画像化して添付する、前提となるツイート等をスレッド化しておくなどの対策ができる。出来るのにしないということは、たとえそれによって誤解や誤認が生じても、こちらが誤認したというよりも、そちらが誤解させた、という方が実情に即しているだろう。
 言葉足らずな主張をすれば言いたいことが伝わらないのも当然だ。


 これは、公共政策、情報社会論を専門とする東京工業大学の社会学者・西田 亮介さんのツイートだ。

日本学術会議「関係ない」ツイートが炎上の西田亮介氏 「今回のことで学問の自由が死ぬのであれば、我々はもう死んでいる」 【ABEMA TIMES】

が伝えているように、当該ツイートには批判が集まった。西田さんのツイ―トに対してではないが、同種の主張に違和感を感じて、

と、自分も10/6にツイートしている。

 前述のAbema Timesの記事が掲載されたのは10/10のことで、それまでの数日、この西田さんのツイートに関して、もしかしたら「門外漢が口を出すようなことではない」と言っているのではなく、「学術会議のことをよく知りもしないくせに、政府やその支持者たちはいい加減なことを言うな」という意味なのではないか?という考えも湧いてきた。西田さんのツイ―トは前提となるツイートはスレッド化されておらず、批判が集まった後も補足がスレッド化されることもなく、主張の詳細が分かり難く、自分の受け止めと彼の主張にはズレがある懸念を勘案したからだ。
 しかし記事によると、「政府の重要政策に賛成しない場合に、研究者として名誉な場である学術会議に参加できないということだと、間接的にプレッシャーを与える可能性がある」としつつ、「様々な形で学問の自由を制限するような政治介入が行われている。もし今回のようなことで学問の自由が死ぬのであれば、“我々はもう死んでいる”と言わざるを得ない。言い方を変えると、学術会議の任命権の有り様を変更したぐらいで学問の自由は死なないと、ある種の空元気を強調したい」と、ツイートの意図を話している。
 空元気という表現を使っていることを勘案すれば、学問の自由は死なないと信じたい、とい学者としての気概を見せたとも言えそうだが、どうも彼は「どっちもどっち」と言いたいようだ、というのが自分の感想である。何故なら「学術会議の任命権の有り様を変更したぐらいで学問の自由は死なない」なんてニュアンスは当該ツイートから全く感じられないからで、「門外漢が口を出すようなことではない」と言ったが、批判によってかどうかは定かでないが、途中でその不備に気付き後付けしたように見えるからだ。また、これまで西田氏が所謂冷笑屋のような態度をしばしば示してきたことも批判が集まった理由だろうし、自分も彼に少なからずそんな印象を持っている。

 近現代史研究者で作家の辻田 真佐憲さんが、この件に関して次のようにツイートをしている。

辻田さんが引用しているのはAbema Timesの記事(をYahooニュースが転載したもの)であり、その記事やアベマの番組での言及が炎上したわけではない。辻田さんは西田さんの主張を「まともな発信」としているが、元のツイートの時点では、何が言いたいのかその意図は前述のように複数の解釈が可能なものだった。つまり、辻田さんが「まともな発信」としている記事での西田さんの主張が、ツイートでは言葉足らずで伝わらなかったから炎上したのだろう。つまり、言葉足らずなツイートをしたことが炎上の理由だろう。
 更に言えば、詳しく例は挙げないが、西田さんが批判や指摘に対して示した態度も炎上の理由だろう。いくつか批判や指摘に対する西田さんの反応を見たが、決してまともな発信とは言えないような態度が含まれていた。西田さんは前述のように、ツイッターのリプライ機能を頑なに用いない人なので、やりとりを全て追うのは困難だが、もし売り言葉に買い言葉だったとしても、まともな発信とは言えないものが含まれていたことに違いはない。
 辻田さんの言う様に西田さんは落ち度もないのに炎上したのではなく、炎上するべくして炎上したケースだ。

 トップ画像は、Photo by Charles Deluvio on Unsplash を加工して使用した。

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