自分が小学生の頃よく遊んだ実家近くの小さな児童公園は、数年前に姿が大きく変わった。その公園にはトップ画像のようなブランコ、幹を足場のようにして上に上がれる藤棚とその下に砂場があった。どれも自分もよく遊んだ遊具だ。藤棚は遊具じゃないような気もするが、その下が砂場なのでよく飛び降りる遊びをしてた自分にとって、あの藤棚は遊具だった。しかしどれも数年前に公園から姿を消した。
どんな経緯で遊具が消えたのか、自治会に熱心に顔を出していれば分かったのかもしれないが、自分の両親はそういうタイプでもなく正確には分かりかねる。しかし昨今、老朽化と危険性を理由に各地の公園から遊具が撤去されているという話をよく耳にする。多分あの公園も同じ様な理由で遊具が消えたのだろう。
公園には新しい遊具が設置されたにはされたが、ブランコがあった場所にはまたがると前後に揺れるスプリング遊具が2つ、藤棚と砂場があった場所には簡易な東屋的なものが設置され、明らかに遊具のレベルはダウンしていた。しかも、自分達が子どもの頃にはよく野球をしていたのだが、今は野球禁止の看板が立っている。それでも子どもたちが野球をやっている姿は見かけるので、行政等が何かあった際の責任逃れの為に看板を立てている感がある。
ハフポストが、パラ走り幅跳び高田 千明選手に関する記事を掲載している。
その先に、砂場はあるの?全盲のパラ日本代表、高田千明が感じた跳べない恐怖 | ハフポスト
5歳の時に目が見えづらくなる病気が発覚した高田選手。中学校で盲学校に通い始めた時に、目の不自由な子に対して「動かなくていいよ。見えない・危ないでしょう」という親がいることに驚いたそうだ。高田選手は親から、親はずっと一緒にいてあげられないからと、見えなくてもできることは自分でするように言われて育てられたそうだ。両親は、
死ぬまで囲ってあげることはできない。自分でできることは基本、自分ですべてやりなさい。見えないなりに工夫してできることを考えなさい
と言って彼女を育てたそうだ。
自分はこの記事を読んで、冒頭で触れた、何かと禁止事項の多い何の為にあるのか分からない公園や、危険だからという理由で昨今遊具が撤去される傾向にあることを思い出していた。確かに子どもを危険から遠ざけたい親の気持ちも理解出来なくはない。しかし、何が危険なのか説明もされずに安易に遠ざけられたら、子どもは何が危険なのかが分からない。安易に禁止するのではなく、何が危ないのかを充分に教えた上で、使い方を間違えば危険な面もある遊具を使わせたり、怪我をする恐れのある遊びもやらせた方が子どもの為ではないのか。
教えることを怠って何かを安易に禁止したり遠ざけたりするのは、判断力を養う機会を子どもから奪う。程度や場合によっては虐待にすら当たるんじゃ?とすら思う。筋道をつけて教えずに禁止しても、何故禁止されたのかが分からないので、ある時大きく踏み外す恐れもあるだろう。不合理な校則や性教育に消極的な風潮も同種の問題だと考える。
失敗は成功の基であり、つまり、しても取り返しのつく失敗は、特に若い内は、どんどんするべきだ。失敗する機会を奪う権利が大人にあるのか。何事も経験で、確かに成功体験も大事だが、失敗から学ぶことの方が確実に多い。トライアンドエラーはとても大事であり、失敗するから成功に向けて工夫をする。また失敗することに慣れていないと、失敗でいちいち落ち込み、つまずきやすくもなりそうだ。
また、高田選手の記事の「親はずっと一緒にいてあげられないから」という話からは、別のことも思いだした。それはハフポストがこの数日前に掲載した
野良猫「可愛いだけではないんだよ」多摩川河川敷の猫を追い続ける写真家は訴える | ハフポスト
という記事のことだ。この記事は、多摩川に生きる野良猫たちの過酷な現実とその保護に関する内容である。飼い猫の3分の1しか生きられない猫たち、野良猫「可愛かったな」だけではどうしても済ませられない、まずは目の前の一匹を救うことから、等の文言がある。つまり、猫は人に飼われていた方が幸せだ、という観点で書かれた記事だ。
ペットとして飼っている動物を安易に捨ててはならない、という話には全く同意する。しかし、野良猫は飼い猫の3分の1しか生きられないので、野良猫を保護することで猫は救われる、という話には全く同意できない。猫や犬以外の動物だって、動物園等で飼われる方が、天敵にも狙われず、エサに困ることもなく、自然災害からだって概ね逃れられるし、基本的には野生よりも長生きできるだろう。しかしだからと言って「全ての動物は人間の保護下で飼われるのが好ましい」ということになるだろうか。そんなことは断じてない。なぜ犬や猫に対してだけ別の認識になるのか理解に苦しむ。
「野良猫は本来の生息地とは別の場所で繁殖するので好ましくない。だから人間の保護下に置くべき」という主張も耳にするが、現在の全ての人間の祖先はエチオピア付近から世界中にその生息地を拡大したそうだから、だとしたら人間は、エチオピア付近、少なくともアフリカ東部以外で生息すべきでないということになりはしないか。勿論人間の文明による急速な変化には好ましくない部分もあるが、ある種が他の種を淘汰するということは、これまでにも起こってきたことだし、全ての動物を人間が保護することはおろか、全ての野良猫や野良犬を保護することだって出来ない。野良は長生きできなくても捕らわれない自由はある。どちらを野良猫や野良犬が望んでいるのかは直接聞かなければ分からないが、直接聞く術は今のところない。向こうから近づいてきた個体を保護するだけなら分かるが、罠まで仕掛けて捕獲することは保護と言えるのかすら怪しい。野良猫が野良で生きることを妨げる権利が果たして人間にあるだろうか。権利という言葉が妥当でないなら、野良猫が野良で生きる機会を奪うことに合理性はあるだろうか。
それは保護ではなく、寧ろ虐待に当たる恐れすらあるのではないか。
トップ画像は、File:今泉第一公園ブランコ - panoramio.jpg - Wikimedia Commons を加工して使用した。