価値観とは、似たような趣味趣向を持つ人でも微妙に異なるものだ。自分は模型やジオラマの展示会をたまに見に行く。最近は別の趣味を主に楽しんでいるので自分で製作することはほぼないが、精巧に作られたミニチュアを見るのはとてもワクワクする。誰でも、所謂男性的な側面のある人なら特に、少なからずそんな感覚を持っているのではないだろうか。
中でも好きなのはガンプラ・機動戦士ガンダムの模型やその世界感を切り取ったジオラマだ。これまでにガンダムは幾つも作品がアニメやマンガや小説で描かれてきたが、大きく宇宙世紀ものとそれ以外に大別できる。自分が好きなのは宇宙世紀もので、1979年にアニメで描かれた最初の機動戦士ガンダム、所謂ファーストガンダムと時間軸的につながりのある、続編及びサイドストーリーである。これまでにかなり多くの宇宙世紀ものの物語や設定集が世に出されており、作品同士の細かな矛盾や中にはパラレルワールド的な作品もあるが、どれも世界観だけは基本的に共有しており、細かい設定がかなり膨大にある。
マンガやアニメ、プラモデルなどで映像・立体化されていないような言葉だけの設定も少なくないので、ガンプラの作り手はそのような部分を想像によって具現化したり、もしここで○○が死んでいなかったら、こちらの勢力が勝っていたらのようなIf設定を具現化したりもする。因みに宇宙世紀ものをシミュレーションゲーム化した作品の中には、アニメ等で描かれた話とは異なるIfを実際に描いているものもあったりするので、世界観の中で自由に創作ができるのが、ガンダム、特に宇宙世紀ものがこれほどまでに長く愛されている理由の一つだろう。
それは、既存の作品の設定を使ってファンが自由にサイドストーリー等を描いて楽しむ同人マンガの文化との共通点でもあり、ガンダムが日本で流行った理由は、膨大で細かい設定によって世界観が作り込まれていること、サイドストーリーやパラレルストーリーが多く存在している為ファンが更なるIfを加えやすい、というのが大きいだろう。
かく言う自分も、ガンダム・宇宙世紀の世界観に沿って妄想を繰り広げるのが好きな者の一人で、精巧に作られたガンプラやジオラマは、そんな想像を掻き立てる格好の素材なので鑑賞するのが好きなのだ。
ガンプラの作り手にはいろいろなタイプの人がいて、世界観に沿って作品のある場面を切り取ったり、自分のように妄想してそれを具現化するタイプの人もいれば、細かい設定はあまり考えずに作りたいように作る、塗りたいように塗るという人もいる。前者とは価値観やタイプが似ているので大抵話をすれば盛り上がる。相手が意図していなかった視点で「○○からの流れを感じますね」「○○を彷彿とさせる雰囲気もありますね」と伝えると、中には自分が描いたものをこちらが感じとらないことに不満を示す人もいたりはするが、大抵「そんな風にも見えるんですね!」という風に好意的に受け止めてくれる。
しかし後者の場合はそうとは限らない。必ずしも後者のタイプがそのような反応を示すとは限らないが、こちらがこちらの解釈で「○○からの流れを感じますね」「○○を彷彿とさせる雰囲気もありますね」と伝えると、「既存のデザインを模倣した」もっと悪く言えば「パクった」と言われたと感じるのか、不快感を示す人がいる。
自分が宇宙世紀もののガンプラを鑑賞する際には、それがアニメやマンガで描かれたストーリーや設定とどのように関わっているのか、どの部分を補完しているのか、どのようなIf設定に基づいているのか、など宇宙世紀の設定に沿った部分探しをすることを楽しむ。つまり何を再現しているか、如何に再現度が高いかは評価すべきポイントで、「○○からの流れを感じますね」「○○を彷彿とさせる雰囲気もありますね」は確実に敬意を示す言葉だ。ミニチュアは何かの再現という価値観で見ているのでそうなる。
だが、ガンプラにかかわらず模型の作り手の中には、オリジナルキャラクターを創出するような感覚で、自分は唯一無二のものを作っていると考えているタイプもいる。ガンプラで言えば、設定に基づいて何かを再現したのではなく、自分仕様のオリジナルカラーで塗った、オリジナル仕様の機体を表現したと考えているタイプだ。そのような価値観で模型やガンプラを作っている人は、「○○を彷彿とさせる雰囲気もありますね」と言われると、多分「所詮二番煎じでオリジナリティなんてないね」と言われた気分になるのだろう。そんな感覚が不快感の発露に繋がるのだろう。
自分は音楽に関してもRemixやカバー曲のようなアレンジものが好きだ。また、クルマのカスタムにしても、USDMという北米仕様を愛好する文化があるのだが、本物の左ハンドル北米仕様をそのまま輸入する人よりも、日本仕様の右ハンドル車を、北米仕様にしかない内外装上の特徴、例えばコーナーマーカーやウインカーまで赤いテールランプや北米仕様のエンブレム類、英語で書かれたコーションプレートなどでフルUS仕様化するようなタイプの人を尊敬する(絶対的な良し悪しではなく、あくまでも好みの問題である)。
多分自分は何事においても、完全なオリジナルよりも、そこからアレンジを加えることに最大の価値を見出すタイプなのだろう。だから「○○と似てる」というのは自分にとっては最大限の評価なのだが、オリジナリティを重視して追求している自負がある人にしてみたら、「○○と似てる」と言われるのは否定されるにも等しいのかもしれない。それは間違いなく価値観の相違だ。
このような価値観の違いを認めることこそが多様性の尊重に当たるわけだが、菅内閣で内閣官房参与に任命された高橋 洋一なる者(内閣官房参与に新たに任命された6人は? 日本学術会議を批判していた高橋洋一氏も | ハフポスト)がこんなツイートをしている。
大阪都構想で学会では反対が多いという。学術会議を見ていてもわかるが、左巻きが多いからね。今回の218億円問題であらわになったが、大阪市役所役人-共産党-毎日新聞のトライアングルが都構想反対派の正体。左繋がりで学者にも反対が多い。これらの人は学術会議の首相任命も反対、わかりやすい
— 高橋洋一(嘉悦大) (@YoichiTakahashi) October 29, 2020
左巻きという表現は、左翼・保守に対するリベラル派を馬鹿にする際によく用いられる表現だ。保守もリベラルも、右翼も左翼も、基本的には認められるべき価値観・思想であり、勿論極論・偏り過ぎ・行き過ぎれば問題性も生じるが、左翼と一括りにして軽蔑するのは適切な主張とは言い難い。そもそもそのような偏見に満ちた表現を用いること自体もどうかしているし、これは異なる価値観や思想への明らかな偏見の表明と言っても過言ではない。
このような言説こそ軽蔑すべきものだとは思うが、絶対的に否定されるべきとまでは思わないし、ただちに犯罪と言えるような主張とも思わない。だが果たして、内閣官房参与に任命された者の発言として妥当と言えるだろうか。全くそうは思えない。このような者を重用する現自民党政権が、如何に多様性の尊重に欠けるか、偏っているかは明白なのではないだろうか。
トップ画像は、Zeonography #3001B 高機動型ザク | CK_Yu | Flickr を使用した。