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「努力したい」としか言わない首相とシューベルトの魔王

 ADSLなどのサービスが提供され始めたインターネット常時接続回線黎明期、ベストエフォートという表現を使った広告が流行った。ベストエフォート 10Mbpsのように謳い回線の速度を宣伝していた。ベストエフォート / Best-effort とは読んで字の如く「最大限の努力」という意味で、常にその回線速度でサービスが利用できるとは限らないが最大10Mbpsの速度が出る、というニュアンスだった(ベストエフォート - Wikipedia)。


 しかしこの宣伝手法は詐欺的であった。何故ならその最大値は理論値であり、サービスの性質上実際にはどうやってもその速度が出なかったからだ。自動車の燃費もカタログ燃費と実燃費には大きな差があり、これと似たようなところがある。数年前には不正も起きたが(三菱自動車工業#燃費試験の不正事件 - Wikipedia)、基本的には自動車メーカーのカタログ燃費は実際に計測可能な条件を示した上で提示されているものであり、同じ条件で走行すればカタログ燃費に近い数字を計測することも可能である。2つはとても似ているが、個人的には、限定的な条件であっても実際に計測可能な自動車の燃費と、サービスの性質上回線を独占的に使用することはできないのに、独占的に使用しないと計測できない数字を謳うネット回線のベストエフォートは厳密に言えば別物だろうと考えている。

 努力目標を掲げることは絶対的に悪いことではないものの、政治家や政府が公約として達成を公言してた目標を、目標達成が出来なかったり、達成できないことが確実となった時点で「○○までに達成するべく努力する」などと言いだす場合があり、そのような場合には「努力目標に後退」と表現されることがある。というか、2011年頃、つまり前政権まではそのような批判がしばしばなされていたのだが、2012年以降、つまり現自民政権になってからは、物価上昇率2年で2%上昇という目標を達成できずに何度も延期に次ぐ延期を繰り返して今や有耶無耶になっていたり、指導的地位における女性割合を2020年までに3割にするという目標も達成できずに先送りしたのに、政府や首相に対するそのような批判が殆ど見当たらなくなっており、「努力目標に後退」と表現されることがあった、と言った方が実情に即している。

 つまり、今の自民政権の掲げる努力目標なんてのには全くなんの意味もない。「考えてないわけじゃない」をアピールするだけで、実際には尻すぼみに何もせずに終わること、努力すると言い続けるだけ(例えば拉致問題などはその典型的な例)な場合が殆どであり、単なる「私たちは考えてないわけじゃないですよ」をアピールするだけの道具に過ぎない。
 首相の菅は12/25の会見で、GOTOキャンペーンに対する不信が国民にあることを認めた上で、

GoToトラベル停止 首相は「説明、十分でなかった」 [新型コロナウイルス]:朝日新聞デジタル

国民の皆さまへのご説明が十分ではなかった面があった。今後、丁寧にコミュニケーションをとることに努めていきたい

と述べた。
 この発言にはスガの本気度が反映されていると考える。本当に丁寧に説明する気があるなら「努めたい」ではなく「約束する」としたのではないか。更に、いささか揚げ足をとるようではあるが、「努める」ですらなく「努めたい」なのだ。「努力する」は結果を保障しておらず、努力はしたが出来なかったという申し開きができる。「努めたい」は更に悪く、努力することすら確約していない。つまり菅が言っているのは、努力するかもしれないししないかもしれない程度だ。
 そんなことを言う者に果たして丁寧に説明する気があるか。少なくとも自分には、これまでの菅の官房長官/首相としての振舞いも勘案すれば、ポーズだけ見せて、口先だけで、努力すらしないつもりだろうとしか思えない。

 「これまでの菅の振舞い」の中でも最も大きいのは直近の姿勢だ。菅は野党側の会期延長要求を無視して12/5で2020年の臨時国会を閉じた。「菅は首相であり、国会を閉じたのは自民党」だと言う者がいるが、菅は自民党総裁という立場でもある。つまり菅は国会を閉じた側の人間であることは全く否定のしようがない。政策について国民に説明出来る場の国会を閉じておいて、その口でよくも「丁寧なコミュニケーションに努めたい」なんて上辺だけの台詞を吐けるものだ。しかも記者会見すら充分に行っていないことも、そんな受け止めに至る理由だ。

  更に菅は12/28の感染症対策本部の会合で、

菅首相「ウイルスに年末年始はない。国民も協力を」 対策本部会合で呼び掛け - 毎日新聞

ウイルスに年末年始はない。国民にも協力をいただき、一日も早く日常が取り戻せるよう、これまで以上に高い緊張感を持って年末年始の対策を徹底してほしい

と各閣僚に指示した。
 ウイルスは昼も夜も関係ないのに、なんで夜の街、夜の街とレッテルを貼るような自粛要請を出すのか、という批判は4-5月頃に多く見られたが、政府や一部自治体は今も夜○時以降の営業自粛なんてことをやっている。そんな政府の長が急に「ウイルスに年末年始はない」なんて言いだしたこと自体が滑稽だ。だが、菅の言う通りウイルスは昼も夜も年末年始も関係なく、その為に医療関係者は昼夜問わず・休日平日を問わず対応に当たっている。にもかかわらずなぜ菅率いる自民党は対策検討の場である国会を早々に閉じたのか。状況は刻一刻と変わっているのだから、常に対応を議論する必要があるのに。菅がそんなことを言うなら、国会も大晦日元旦以外は開けておくべきではないのではないか。結局こんな台詞も、単なるポーズに過ぎないと言わざるを得ない。

 オーストリアの作曲家シューベルトは、 ドイツの詩人ゲーテの詩をテーマにした歌曲「魔王」を1815年に作曲した。曲の歌詞は、父親が熱を出した息子を腕に抱き、夜の闇の中を馬で医者に連れて行くというストーリーだ。馬で駆ける2人の側に魔王が寄ってくるのだが、魔王の姿は息子には見えるが父親には見えない。魔王がいる!と懸命に訴える息子に対して父親は気のせいだと取り合わないのだが、息子が苦しみ出して父親が気づいた頃には時すでに遅く、医者に着いた時には息子は息絶えていた(魔王 シューベルト 歌詞・日本語訳)。
 新型ウイルスの感染拡大はすさまじく、毎日のように新規感染者の数が過去最高を更新しており、毎日数十人が命を落としている。そんな中でもまだ有権者の4割は現政権を支持している(新型コロナ 内閣支持率42%に急落 コロナ対策「評価せず」59% 日本経済新聞)。自分の家族や友人が歌曲「魔王」の息子のようになってから、現自民政権は魔王だったと気づいても遅い。他国が「やってもいかないよ」と言うまでオリンピックの延期を決めなかったり、支持率が下がるまで感染拡大政策のGOTOキャンペーンを止めなかったような政府を支持していると、自分の家族や友人が「魔王」の息子にようになる確率はどんどんと上がっていく。


 トップ画像は、PexelsによるPixabayからの画像 を使用した。

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