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明けましたが、全然めでたくありません

 以前はアプリケーションソフトのバージョンアップする際に、OSの再起動を要求されることが多かったが、最近はそんなのは少数派だ。しかしそれでもバージョンアップするソフトは一度終了し、古いバージョンを削除してから新しいバージョンがインストールされる。これも以前はユーザーが旧バージョンを手動で削除することが要求されていたが、最近はインストールの過程で自動的に行われる。


 この、問題や課題を残す古いものを整理して新しいものを始める、というアプリケーションソフトのアップデートに「明けましておめでとう」との同質性を感じた。厳密に言えば、今日が1/1だから「明けましておめでとう」を連想し、そこから更にアプリケーションソフトのアップデートに似ていると連想したのだが、文脈上逆の方が都合がよいのでそう表現した。
 何がどう似ているのかと言えば、「明けましておめでとう」とは、無事に新しい年を迎えることができてよかったですね、という意味の挨拶である。無事に新年を迎えるとは、「今年の汚れ今年のうちに」だとか「借金は年末までに返してもらわないと困りますよ」だとか、その年の問題を次の年に持ち越さずに区切りをつけて新しい年を迎えよう、そして新しい年をまっさらな状態で始めよう、ということであり、それが叶って「おめでとう」なわけだ。つまりアプリケーションソフトのアップデートに置き換えれば、「明けましておめでとう」は「新バージョンのインストールが無事に成功しました!」ということだ。

 時間や暦は人間の都合とは関係なく嫌でも進んでいくものなので、不運にも命を落としたりしなれば自動的に新しい年を迎えることになる。しかし新年を迎えることが無条件に「めでたい」かと言えば、必ずしもそうとは限らない
 幼い頃誕生日を祝ってもらった際に、祖父や祖母の誕生日を祝ったことがないことに気付いた自分は、「どうしておじいちゃんの誕生日会はやらないの?」と尋ねたことがある。それに対して祖父は「おじいちゃんの年になると、歳を取るのは嬉しくもめでたくもなくなるから」と答えた。それが果たして本音だったのかは分からないが、多くの人は30歳前後から老いを意識するようになり、歳をこれ以上取りたくないと少なからず思うものであり、当時60歳を過ぎていた祖父は「もう歳を取りたくない」と思っていたのだろう。自分も歳を追う毎に誕生日の有難みは薄れている。
 それと同じなのかは分からないが、旧年の問題が新年にも持ち越され、新年も旧年来の問題の多くを引きずることが年越し/年明けから明白であるならば、「明けましておめでとう」ではなく「明けましたが全然めでたくありません」と挨拶した方が実情に即している。2020年から2021年への移行は、アプリケーションソフトのアップデートに置き換えれば、問題が多すぎて2020年を正常にシャットダウン出来ず、「2021年のインストール中に問題が発生しました」つまり正常にアップデートができなかった状態だと自分は考えている。

 「昨年は多くの人が新型ウイルスへ感染し命を落としたが、自分はそんな不運に見舞われることなく新年を迎えることが出来たので、それだけでめでたい」のようなことを言っている人もいるが、別の意味でおめでたいなと感じる。死んでしまった人に比べたらそりゃ生きているだけで幸せと思えるかもしれないが、それはあまりにも悪すぎる例と比べて安心しているに過ぎない。勿論心のストレス緩和の為にはそんな思考が必要な時もある。しかし冷静になって考えれば、百点満点で30点の成績だった者が0点の者を見て安堵しているのとも似ている。
 向上心を持って考えれば、少なくとも以前の状態を維持出来て初めて「めでたい」と言えるのではないか。新型ウイルスは世界中をほぼ満遍なく襲ったが、一部に既にそれ以前の状態を回復した地域もある。不運にも命を落とした人と自分を比べるのではなく、既に回復した地域と自分達の社会の現状を比べて、何が足りないのか、何が問題なのかを判断するべきだ。だから「別の意味でめでたい」と言いたくなる。

 暦の上では2021年1/1を迎えたが、自分にとって今日はまだ2020年13/1だ。少しでも早く2021年を迎えられるように、2020年の問題を解消して2021年を正常にインストール為の差分ファイルを完成させないといけない。個人的には今年ほぼ必ず行われる衆院選で自民党を与党から引きずり下ろすことが、2020年を正常に終了させて2021年に移行する最善の策だと考える。


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