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日本人は偏見や差別を厭わない排他的な民族性

 日本人は排他的な民族性である、こう言わざるをえない。他国と比較してどうこうではないが、未だに同性婚を法的に認めず異性愛者との同権が実現していないことが物語っている同性愛者などの性的少数者への偏見、在日コリアンや韓国人や主にアジア系や黒人など外国人や国外にルーツを持つ人への偏見、そして刺青を入れている人への偏見など、全く偏見の強い国である。


 偏見は絶対的に悪いものとは言えない。誰しも少なからず偏見を持っている。例えば、これまでの交際経験などから「髪を染めている人と付き合うと騙されるから付き合わない」のような、独自の判断基準を持っている人は結構多い。「髪を染めている人には人を騙す人が多い」は明らかに偏見だが、そのような認識でも広く流布せずに個人的な判断の材料にするだけなら、それは個人の自由の範疇だろう。しかし「髪を染めている人は人を騙す人ばかりだ」と公然と言い放つことは、髪を染めている人への偏見による差別的な言説に該当する。こうなってしまうと、この偏見は容認し難いものとなる。
 例えば、髪を染めることと人を騙すことの間に何かしらの相関、若しくは因果があることを調査などによって証明できれば、そのような主張も偏見とは言えないだろうが、自分や自分の周辺の数少ないサンプルだけに注目し、事実ではないことをあたかも絶対的な事実かのように認識することは間違いなく偏見の類であり、それをあたかも事実化のように公然と流布することは差別になる。

 21世紀になってからもう20年も経つのに、未だに自分の周りにも「同性愛者は気持ち悪い」とか、「刺青は不快」なんて言っている人達がいる。なぜそれらの考えがいじめをする者と同種の感覚だという認識にならないのか不思議でならない。○○は気持ち悪い・不快と思うところまでは個人の自由だが、それに基づいて公然と権利を認めないとか、排除しようとか、他と同様に扱わないことなどを正当化しようというのは、間違いなく偏見に基づく差別である。そんな事例が日本にはまだまだ多くある。

 2020年大晦日のWBO世界スーパーフライ級タイトルマッチで、刺青を露出した状態で出場した(厳密には試合中に刺青が露出した状態になった)井岡 一翔選手が、JBC:日本ボクシングコミッションの「刺青など観客に不快の念を与える風体の者は試合に出場できない」という規則に反した、として話題になった。この件に関する一部著名人らの反応があまりにも酷い。
 自分が物心ついた1980年代にはもう既に刺青=暴力団・アウトローのような認識が一般的だった。入れ墨#入れ墨の歴史 - Wikipedia によると、1872年に大久保一翁東京府知事が発した布告によって、装飾用途の刺青を入れる行為が禁止されたそうで、既に刺青を入れていた者に対しては警察から鑑札が発行されたそうだ。「入れ墨を施す行為は厳しく取り締まられ、当時の彫師達は取り締まりを恐れて住居を転々と移した」とも書かれている。この明治時代の政令が現代日本における刺青嫌悪の源流だろう。しかし一方で禁令は徐々に形骸化していったというような記述もある。だが、戦後GHQによって刺青は合法化されたが、明治以降の非合法化されてきた印象は払拭されず、また1960年代以降、刺青と「ヤクザ」との結びつきをドラマチックに描いたヤクザ映画の影響で、一般的に「刺青=暴力団・アウトロー」のイメージが広がった、とされている。
 つまり現代日本の刺青嫌悪は、明らかに「刺青は不快」というイメージによる非合理的なもので、それは偏見の類であり、それによって刺青を排除しようというのは差別に他ならない。自由主義国家にあるまじき不当な弾圧・排除としか言いようがない。

 井岡選手の件について、元WBA世界ミドル級王者の竹原 慎二さんは次のように言っている。

竹原慎二氏、井岡のタトゥーは「チャンピオンになって入れるのは駄目」/BOX - スポーツ - SANSPO.COM(サンスポ)

チャンピオンになって入れるのは駄目でしょ。チャンピオンはみんなに尊敬される

これは、裏を返せば「刺青は尊敬される人のすることではない」若しくは「刺青を入れている奴は尊敬できない」と言っているようなもので、直球ど真ん中の偏見だ。前述のように、竹原さんが個人的にそう認識する自由はあるが、そう公言したら差別的な考えだと批判されて当然だ。だが記事にはそのような指摘どころか懸念すらも示されておらず、記者や新聞社も差別や偏見の何たるかを認識していない、と言えるだろう。
 竹原さんは「ルールで『隠して出ろ』となっていたんだから、しっかり隠して出ないと。もしこれから『海外だったらできるじゃないか』と言うのだったら、海外でやればいい。日本は無理なんだから」とも言っている。つまり「日本は差別や偏見に満ちた国、嫌なら出ていけ」と言っているのも同然だ。だから「日本人は排他的な民族性である」と言わざるをえない。

 勿論竹原さんの発言だけを以てそう言っているわけではない。他にもサンプルはある。タレントの武井 壮さんや、WBA・IBF世界バンタム級統一王者の井上 尚弥選手は「ルールだから従え」と主張している。

武井壮が井岡一翔“タトゥー問題”に再び言及「法律やルールで規制してる事を守って戦うのがスポーツだしアスリート」:中日スポーツ・東京中日スポーツ

オレは基本まず事前にあるルールは守るべき派 異論があるならルールを変えてからタトゥー入れるべきやなと思う

井上尚弥”タトゥー問題”井岡のルール違反に苦言「したいのならルール改正に声を上げるべき」【ボクシング】:中日スポーツ・東京中日スポーツ

タトゥー 刺青が『良い悪い』ではなくJBC(日本ボクシングコミッション)のルールに従って試合をするのが今の日本で試合をする上での決まり事。このルールがある以上守らなければね。タトゥー 刺青を入れて試合がしたいのならルール改正に声をあげていくべき。まずはそこから

少なくともこの部分だけを勘案すれば、この2人の主張は必ずしもおかしいとまでは言えない。だが2人とも「刺青など観客に不快の念を与える風体の者は試合に出場できない」という規則に妥当性があるのかには言及しておらず、つまり彼らが言っているのは「どんな理不尽なルールだろうが、ルールである以上守らなくてはならない」のような、所謂ブラック校則などを実質的に肯定してしまう考え方だ。
 例えば、「刺青など観客に不快の念を与える風体の者は試合に出場できないというJBCの規則は、ボクシングが暴力団との関係を否定・根絶する為に設けられた歴史があり、だから一定程度尊重する必要がある」のような前提に基づいて、ルールだから守るべきという主張なら、個人的には賛同しかねるが、主張として理解できる部分はある。しかし2人の主張からは、そのようなニュアンスは一切感じられない。
 酷いのは武井さんで、彼は

でもさ、もしあの試合観て自分の子供が『井岡さんのタトゥーかっこいい!』と街でお小遣い使ってバキバキのタトゥー入れて来たらどう?いいねえ!って言う? ボクサーじゃないから規制もされてないから問題なし?子供が梵字とトライバルで上半身埋めてきたらどう?アスリートは憧れだから可能性あるよ
 それを良しと言えるなら、子供が大麻を吸ってタトゥー入れまくる時代をよしと言えるならいいんじゃない?お咎めなしで。
オレは元アスリートでタレントでそれを良しと思わない。だから反対しているし、法律やルールで規制してる事を守って戦うのがスポーツだしアスリートだから守るべきだと伝えます

とも述べたそうだ。もう偏見の塊としか言いようがない。子供が真似るから見せるな、と言うなら、そもそもボクシングだけでなく格闘技全般を子供に見せるべきではない。そして、子供に刺青を見せたら子供が大麻を吸ってタトゥー入れまくる時代になるなんて認識は、「同性婚を認めたら足立区が滅ぶ」と言った政治家と同レベルかそれよりも酷い。最早偏見の塊という感すらある。

 勿論、こんなバカげたことを言っている人達ばかりではなくて、元プロ野球選手の新庄 剛志さんは、

井岡一翔の入れ墨問題に井上尚弥が「ルールがある以上守らなければ」 – TOKYO HEADLINE

なんだこの日本の古臭い考え~ 考え方をアップデートして行こうぜ

とインスタグラムに投稿したようだし、元格闘家で現在はフリーのジャーナリストとして活動している片岡 亮さんは自身の書いた記事の中で、

井岡一翔の「タトゥー問題」で、JBCが犯した「決定的な大失敗」(片岡 亮) 現代ビジネス 講談社

近年、反社と関与しないことはライセンス取得時に誓約させているから、入れ墨を入れるか否かは、基本的には、選手の自由な選択に過ぎない。そうなると、こんな徹底しにくい「タトゥー禁止」などというルールは無用で、実際にそんなルールがなければこんな騒ぎになっていなかった。

としている。

 片岡さんの言うように刺青禁止なんてルールは無用だ。無用どころか弊害すら生むものである。なぜか。それは、刺青を見せるのは好ましくないので禁ずるというルールこそが、刺青=不快で排除すべきもの、弾圧しても構わないものという認識を推進する・煽る存在だからだ。つまり偏見を生み差別を肯定しているとすら言えるのが、「刺青など観客に不快の念を与える風体の者は試合に出場できない」というJBCの規則だ。そんなルールに関して「ルールだから守れ、嫌なら海外でプレーしろ。日本から出ていけ」と言っている人達がいて、しかもメディアがそのような主張を無批判に取り上げているのが日本の現状である。

 少ないサンプルだけを理由に「日本人は排他的な民族性である」と断定すれば、それも偏見かもしれない。しかし少なからず影響力のある人達が偏見と差別的な主張を公然と行い、しかもそれを無批判に取り上げるメディアが少なくなく、そして読者や視聴者から強い反発の声が起きないのだから、そう断定できると自分は考える。
 子どもの頃に「いじめを傍観するのはいじめに加担するのも同然」と教えられる国の現状はこんなものだ。そう教えられているのにも関わらず、多くの人が傍観するのだから「日本人は排他的な民族性である」という認識はやはり間違いではないだろう。

 トップ画像は、Photo by Mohammad Faruque on Unsplash を加工して使用した。

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